はじめて「分離唱」という言葉を聞いた人は、「何それ?」っていう感じだと思います。私も正直言ってそうでした。合唱に限らず、音楽に関心のある人が耳にする機会が多い言葉でしょう。「音感教育」のひとつらしいけれど、音楽の大切な要素である「ハーモニー」は、「融合」のイメージなのに「分離」とは何ぞや?と思うのが普通でしょう。佐々木先生から、「分離唱」と名づけた理由を直接聞く機会がなかったのは、「名前なんてどうでも良いから、早くその本質にあずかりたい」という気持ちが優っていたのだと思います。
自然界に存在する音にはさまざまなものがありますが、聴いて心地よい楽音の場合、根音(基本波)に加えて2倍音、3倍音、・・・といった高調波が含まれています。根音の周波数の比が、簡単な整数で表される、たとえば2:3、3:4、5:6など異なる高さの音同士が調和して聞こえてきます。それぞれの倍音が共鳴して豊かな響きになるのです。これが純正和音です。よほど特殊な訓練をした人なら出来るのかもしれませんが、普通の人間はひとりでは単音しか出すことはできませんね。和音に溶け合うように、耳をはたらかせながらその和音の構成音の一つを分離して歌うのが分離唱だと説明されている記事が多いようですが、おそらくそれが「分離唱」の「分離」の意味だと思います。
「分離唱」のポイントは、和音の響きをよく聴いて、この響きに、自分の声を溶け込ませることです。周囲の音と、自分の声の重なりを感じて、「気持ちいいな」と感じるところを見つければいいのです。「もうちょっと高い(低い)かな?」なんて考えていては溶け込むことはできません。ひたすら、無心になって聴くことです。自己主張がぶつかり合っていたら美しいハーモニーは生まれません。合唱サークルの多くは、新しい曲を始めるとき、まず「パート練習」をやって、それぞれのパートのメロディーを覚えたところで、全パート合わせて歌います。このとき、となりのパートに釣られない様に耳をふさいで歌う光景もよく見られます。正直に言って、私も小学校、中学校の音楽の授業でこうしたやりかたを当たり前のこととして経験してきました。ですが、「分離唱」に出会ってからは、「パート練習」が無意味なことに目覚めました。「分離唱」の素晴らしいところを一人でも多くの人に感じてもらいたいものです。

(2017.09.24追記) 数多くの方に、この記事を訪問していただいていることを知り、「分離唱」について関心を持たれていらっしゃる方が多いことをうれしく思っています。私自身読み直してみて、言葉足らずだったなと思えるところ、これも知ってもらいたいと思うところ、が散見されましたので若干追記させてもらいたいと思います。

「分離唱」の素晴らしいところは、難しい訓練を積むことなく、簡単に、美しいハーモニー、純正和音の澄み切った響きを体験することができ、そのハーモニー感覚を身に着けてしまうと、合唱をする楽しみが格別のものになることだと思います。各パートの声が溶け合った響きの中に、自分も溶け込んでいる状態って、言葉ではうまく説明できない快感に浸れるのです。合唱を指導する人の言葉に「皆が気持ちを一つにしないと良いハーモニーはできない」とよく言われますが、それも決して間違いではありませんが、「分離唱」を通して身についたハーモニー感覚で合唱に加わると、「気持ち(こころ)」も揃ってくる。言い方を変えれば、「分離唱」のハーモニーは「こころ」が揃っていないと成り立たないのです。

ここまで書くと、お気づきの方が多いと思いますが、「分離唱」のもう一つの大事なポイントは、「こころ」をひとつにして音楽を楽しむことではないかと思います。はじめに書いた部分では、分離唱のイロハのイ、すなわち形だけでしたが、形だけのハーモニーでは音楽にはなりません。もちろん、この形でハーモニーは明らかにきれいになるのですが、魂が入っていない仏様と同じです。作曲者の「こころ」「魂」を感じて(読み取って)、その「こころ」「魂」を自分たちなりに解釈して、いかにしてそれをうまく表現できるかということに心を配ってこそ、感動できる音楽を楽しむことができるのだと信じています。

私がこれまで、分離唱について思ってきたことを何篇かの記事に投稿してきました。中には内容がダブっているところがあるかもしれません。お時間があったら是非こちらにも目を通してください。ご意見など頂けたら嬉しい限りです。

分離唱は魔法の杖 騙されたと思ってやってごらん 「耳をひらく」ということ 

分離唱により耳をひらいたハーモニーの魅力

澄み切ったハーモニーの快感

分離唱によって耳をひらく、とは

「分離唱」と呼ぶわけ

 

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