1973年から12年間、山梨大学合唱団が指導をいただいた故佐々木基之先生が考え出された音感教育法に名付けられた「分離唱」。
 私も山梨大学合唱団で先生のご指導を受け、深い感銘を受けた一人です。分離唱で耳をひらいた学生たちの紡ぎ出すハーモニーの素晴らしさに心が癒されない日はありません。今、全国には先生から直接指導を受けられた方も大勢いらっしゃるでしょうし、そうでなくても分離唱の効能を知って、ご自身の音楽活動の中に分離唱を活用されておられる方も大勢いらっしゃるように見受けられます。インターネットで「分離唱」を検索すると、数え切れないほど多くの記事にヒットします。分離唱を通して佐々木先生から尊い音楽の宝物を頂いた一人として、嬉しい気持ちはあるのですが、素直に喜べないところがあるのも事実です。「分離唱」の言葉だけが一人歩きを始めてはいないか、と気になるのは思い過ごしでしょうか?
 佐々木先生が書かれた書物をみれば分離唱の形を実践することはたやすく出来るでしょう。勘のいい人なら、この方法によって、それ以前と比べて、より澄んだハーモニーを体感することができるかもしれません。「勘のいい人なら」と書いたのは、形を実践するのは必要条件でこそあれ、十分条件ではないと考えるからです。形を真似ても、それだけでは楽しめる音楽にならないことが多いと思います。
 現実に、合唱練習に分離唱を取り入れている合唱団を知っていますが、ある程度はハーモニーらしく聞えるのですが澄んだハーモニーはなかなか産まれません。指導者は「聴いて、聴いて」と繰り返されるのですが、メンバーの中には聴くポイントが掴めていない人がいるのではないかとしか思えません。観念的な言葉になってしまいますが、「聞いて」はいるけれども、「聴く心」を持って聴いていないからだとも言えるかも知れません。「聴く心」とは、指導者のピアノを叩く和音の響きをよく聴いて、その響きと自分の出している声が溶け合うように、無心になって聴くことです。そうするうちに気持ち良いポイントが見つかるはずです。ピアノの響きに溶け合うと書きましたが、「ピアノは平均律だから濁った和音なのでは」という疑問が湧くでしょう。この時に、こういうことに頭を使う必要はありません。普通に調律されたピアノであれば分離唱には十分なのです。ピアノの響きに溶け込ませることができた後は、ピアノを外して三声ないし四声を重ねると、人間の耳は純正な調和音にどんどん近づきます。逆に生身の人間に平均律のような音を出すことは不可能なのです。
 ここで私が言いたいことは何かと言うと、「音楽」は「心」を「音」で表現するものですから、複数のメンバーが集まって合唱をするときに、メンバー全員の心が一つにならなかったら良い音楽は生まれません。心が一つになるところまで、ひとりひとりの自我を捨てて聴くことが大事なことだと思うのです。佐々木先生が、分離唱を通して私たちに伝えたかったことは、こういうことではないかと私は理解しています。分離唱を通して全国で様々な音楽活動を展開していらっしゃる大勢の方に、是非こうしたことを頭の片隅にでも置いておいていただけたら幸いです。

 

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