信時潔の名前を知ったのは、入学した宇都宮高等学校校歌の作曲者としてが初めてです。
P1020023
P1020024
P1020025

大木惇夫の詞
 さみどりすがし 瀧の原
 栃の木かげの学び舎に
 つどひて たのし はらから われら、
 智慧の果よ、その果をうけて
 日ごとに磨き いそしみやまず、
 「自律」の鐘を鳴らしつつ
 ああ、眞實のひとたらむ。
 (2,3番 略)
この詩に付けられた曲は、ハ長調 4/4拍子 テンポ約100 いきいきと と示されています。
歌いやすい旋律で作られて、とても気に入っています。

詞の中に盛り込まれた「生徒指標」すなわち、「和敬親愛 質実剛健 自律自治 進取究明」
漢詩を思わせるような、漢字4文字の熟語が4つ並んでいますが、この中から、
「和敬」「自律」「進取」の詞を、1オクターブ跳躍する、力強い旋律で歌い上げるところなどは
限りない成長を目指して、日ごと勉学にスポーツにいそしむ高校生の心を奮い立たせてくれる、
実に見事な作品だと思います。

校歌が3番までなので、「質実剛健」が入っていません。どういった意図があったのか、知る由も
ありませんが、私の勝手な想像では、「和敬」「自律」「進取」は3つの音節で歌えるのに対し
「質実」は4つの音節からなるために仲間に入れなかったのでしょう。

入学した時に全員に配られた、原作者の手書きの原稿の複製を今も大事にとってあります。
(だいぶ黄色くなってしまいましたが)
五十年近く経った今、記憶は定かではないのですが、校歌を歌うのはせいぜい年に数回、主だった
校内行事の時で、ユニゾンで歌った記憶しかありません。今、改めて自筆楽譜の複写を見ると
「斉唱」の旋律の段の下に「*Ⅱ、Ⅲ」の旋律の段が示されており、欄外に*註 三部合唱ノ場合ハⅡⅢヲ唱和ス、
と書かれていました。男子校なのだから「男声四部」で書いて欲しかったなあ、と思います。

信時潔のお孫さん信時裕子さんが、信時潔に関する実に詳しい資料を公開してくださっています。
それによると、彼が作った校歌は900曲近くあり、その他にも団体歌などもあり、1000曲以上
の依頼をこなしていたようです。推察ですが、「混声四部」とか「男声四部」にしてくれ、という
強い要望でもない限りは、合唱用にと、ほとんど同声三部で書くのが通例だったのでしょう。

高等学校校歌のことがだいぶ長くなってしまいました。
高校生の時に、この他に信時潔の合唱曲を歌ったのが、女子高校と合同で混声合唱曲「子等を思ふ歌」です。

山上憶良の作った歌です。

802 瓜食めば 子ども思ほゆ    うりはめば こどもおもほゆ
    栗食めば まして偲はゆ    くりはめば ましてしのばゆ
    いずくより 来りしものぞ   いずくより きたりしものぞ
    眼交に もとな懸かりて    まなかいに もとなかかりて
    安眠し寝さぬ         やすいしなさぬ

    反歌

803 銀も金も玉も何せむに     しろがねもくがねもたまもなにせむに
    まされる宝 子にしかめやも  まされるたから こにしかめやも

明治20年、大阪北教会の牧師吉岡弘毅 母吉岡とりの三男として生をうけた潔は、幼い頃から
賛美歌に親しむ環境に育ちました。11歳の時、大阪北教会の長老、信時義政 妻信時げんの養子に
なり、中学卒業まで大阪で育ち、18歳で東京音楽学校予科入学 19歳で本科器楽部入学(チェロ専攻)
23歳で研究科器楽部進学 25歳で作曲部進学 28歳で助教授に就任 と黎明期の日本における西洋音楽
の最高レベルの環境で育った信時潔の作風は、西洋音楽の手法を学びながらも、日本古来の文化伝統を尊重し
決して受け売りでは真似のできない、正統を重んじ、重厚かつ、簡素な表現をモノにしていると思います。

このあと、山梨大学合唱団に入り、さらに信時潔の作品の魅力を追っていきます。

Follow me!