山田耕筰と同時期に活躍した偉大な作曲家、信時潔。その人となりを今、詳しく知りたい気持ちが高じています。手がかりとなったのが信時潔の三男の娘裕子さんが精力的に調査収集しておられる成果をまとめたウェブサイト「信時潔研究ガイド」です。
信時潔が1965年、77歳で生涯を閉じたとき、当時4歳だった裕子さんにとって祖父潔と生活を共にした時間は限られたものだったはずですが、自身の成長に伴い信時潔の偉大な業績に触れていくに従って、祖父の残した偉大な遺産をもっと世に広めたいという想いが高まったと想像します。彼女が2005年8月1日に開かれた「信時潔の夕べ~信時潔没後40年に」のプログラムに寄せた文章を一部引用させてもらいます。
 <肘掛に置かれた指の記憶から今日まで> かろうじて覚えているのは、ソファの肘掛に置かれたその人の指が、タララタララとピアノを弾くように動いていたこと。その人は、ピアノを弾いて作曲する人だった。故阪田寛夫先生の名著「海道東征」にも書かれているのだが、朝日放送の「海道東征」放送の日も、オープンリールテープを廻して録音しながら聴いていたその人の近くに、私は居たらしい。その人にまつわる次の記憶は、珍しく七人のいとこたちが一同に会し、大人たちの何か違う様子を察しながら遊んだあの日、昭和四十年八月一日に亡くなったその人の葬儀の日だった。
 子供にピアノを習わせたいと、その人に相談した母は、専門家にはするな、と言われたらしい。ピアノは全然モノにならなかったが、結局は、音楽に関わる世界の片隅に住みだした。卒業論文のテーマを決めるとき、面倒な原書を読まずに卒論が書けそうで、しかも自由に手に取れる資料が山ほどあると思いついて、その人、信時潔の作品目録の試作に取り組んだ。いざ入り込んでみると、信時潔に限らず、日本の洋楽史については、手つかずの資料、テーマはいくらでもあり、「遺跡発掘」にも似たその作業の末には、それなりの達成感を味わうことができた。やがて、そんな音楽資(史)料を扱う専門機関で仕事をするようになっていた。
(中略)
 その、信時潔没後四十周年記念出版委員会として準備してきた『独唱曲集』『合唱曲集』『ピアノ曲集』の復刻版が、いよいよこの七月、春秋社より刊行に至った。新保祐司著『信時潔』(構想社)、CD『信時潔ピアノ曲全集/花岡千春』(ベルウッドレコード)、『海ゆかばのすべて』(キングレコード)の刊行、また二年前に故芥川也寸志先生の遺志を継いで再演された「海道東征」を収録した『オーケストラ・ニッポニカ第二集』(ミッテンヴァルト)の再プレスなど、次々と、信時潔に関する作品が世に出ている。まだ忘れられてはいなかった、という手ごたえは、十分だった。
「さて、ここでこれだけ、世に出ましたよ、おじいちゃん。この国の音楽として、まだ生き続けているようです。」(終わり)

この文章の中にも書かれている、新保祐司著「信時潔」を読みました。東京大学文学部仏文科を卒業された著者の文章は、歴史小説を読むような印象を受けました。信時潔が生きた時代の社会情勢を示しながら、彼の置かれた立場、彼の思想表現などを紹介しています。著者が、この作品を書かざるを得ない気持ちに至ったところが、「あとがき」に書かれた次の言葉に象徴的に表されていると思いました。
・・・それにつけても、信時潔について書くことは、単に忘れられた作曲家、隠れた名曲を発掘するといったことにとどまるものではないであろう。やはり、「歴史を正す」ということにつながっていかざるを得ないのである。・・・

同じく、阪田寛夫著「海道東征」も読みました。こちらの著者は、童謡「さっちゃん」の作詞者としてよく知られているように、叔父に大中寅二、その息子大中恩がいるような音楽的環境に恵まれた人で、その視点は、社会情勢に向けられるところよりも、もっと生身の人間信時潔に深く向けられていて、私なんかはどちらかといえば、こちらのほうが好きですね。

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