日本最初の官立音楽研究・調査機関として1879年(明治12)に文部省内に伊沢修二を長として設置された音楽取調掛からはじまり、それまでの日本文化に西洋の音楽が取り入れられ、8年後1887年には東京音楽学校に改編され、現在の東京芸術大学音楽学部につながって、多くの人材が育ち、そのおかげで私達が小学校のドレミファから始まり、西洋で発達した音楽形態を、もともと日本にあった音楽のような感覚で親しんできています。
東京音楽学校で育った人材の中でも、1904年に音楽学校予科に入学した山田耕筰とその翌年に入学した信時潔、二人の巨匠の功績は偉大なものだと思います。信時潔の作品に惚れ込んで、このブログにも書き込んでいますが、正直なところ私ばかりでなく多くの日本人が、少年少女時代から触れ合っているのが山田耕筰が残した沢山の童謡、日本歌曲なんですね。山田耕筰の名前は知っていても、信時潔の名前は知らない人もいるかもしれません。
山田耕筰と信時潔とは、作風も異なり、戦争という悲劇に直面しての身の処し方も対照的でした。奇しくも今年が二人の巨匠の没後50年に当たります。此のところ私は信時潔の方ばかり向いていたせいかもしれませんが、信時潔の「海道東征」コンサートを始め、様々な催しが目に入ってきているのですが、同じ様に山田耕筰の方も、没後50年を記念した催しが開かれているのでしょうね。

信時潔がバッハ、モーツァルト、ベートーベン、バルトーク、ヒンデミットその他多くの西洋の巨匠の研究を踏まえながらドイツ古典派・ロマン派に基づく簡素で重厚な作風を貫いたのに対し、山田耕筰の作品は、日本語の抑揚を活かしながら、彼独特の感性で、親しみやすい数多くの美しい童謡、歌曲が残されています。山田耕筰の童謡についての考えが「耕筰百言集」にも書かれています。まだ私は読んでいませんが、「山田耕筰著作全集」全3巻岩波書店2001年刊の他にも多くの著作を残しています。彼の作品を味わうだけでも大きな楽しみですが、その作品を生んだ山田耕筰がどんなことを考えていたのかを知る意味でも、読んでみたいなと思っています。

この後、別稿で山田耕筰の作品について、書きとめていきたいと思います。

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