3年近い前にNHKテレビで放送された番組そのものを私は観そびれていたのですが、買っておいたテキストをこのたび,じっくり読み返してみました。

100分de名著 夏目漱石/こころ

100分de名著 夏目漱石/こころ

テキストの著者、姜尚中(当時、聖学院大学教授)の鋭い視点を通して紹介される、作家夏目漱石の表現に込められた、登場人物の心理分析や夏目漱石自身の思想など、ページをめくるたびにぐさりと胸に刺さってきました。

「夏目漱石」といえば、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」といった作品を思い浮かべる人が多いと思います。小学校か中学校かはっきり覚えていませんが私もその一人だったと思います。おそらく高校時代に、「こころ」を読むに至って、それまで私の頭にあった漱石像が大きく塗り替えられた記憶があります。

中野好夫氏の言葉ですが「(前略)彼は、「猫」だの「坊ちゃん」だのといったような、見方によれば一種軽文学とも見られるユーモアと諧謔で出発した。また、見せかけの誠実を売りものにする自然主義文学が、ようやく興りつつあった中でも、それらには超然として、いや、反発感すらもって、「草枕」的ないわゆる余裕派文学を書き続けていた。が、それにもかかわらず、その根底には、最初から厳しく鋭い倫理意識が一貫していたことは、すでに見たとおりである。(以下略)」中央公論社刊「日本の文学13 夏目漱石(二)」解説より

漱石が「こころ」の中で表現したかったことは何だったのか、色々な見方があるようです。それは読む人が様々な考え方で生きている以上当然のことかもしれませんね。文中の「私」が敬愛する「先生」とのやり取りを通して、真の師弟関係を描こうとしたのかもしれません。「先生」と「先生」の幼なじみの友人「K」と、同じ屋根の下に暮らす「お嬢さん」との間の三角関係(これは、読者の関心を引き留めるねらいで設定された作家としてのテクニックかもしれません)を書いた恋愛小説でしょうか。

テキストには、こう書かれていました。「漱石の小説は、このようにいくらでも多義的な読みを許すところに大きな特徴があります。この「こころ」も、教養小説としても読め、純愛小説としても読め、友情小説としても読め、同性愛小説としても読め、どうとでも読めてしまいます。なぜ多義的に読めるかというと、漱石は「謎を投げ出す」だけで、「謎解き」をしないからです。(中略)謎解きをしたらミステリー小説になってしまいます。(略)暴こうとしても暴くことができないのが人間です。そんな人の心の不可思議を、漱石はこの小説で描こうとしたのかもしれません。」

純文学と通俗小説とジャンルは分かれていますが、今の時代、たくさん売れて「本屋大賞」を取るような小説は確かに読んで楽しめる小説ですが、喜怒哀楽のいずれにせよ心を震わせられる小説に共通しているところは、作家が読み手に感動を与えるだけでなく、読者に問題を投げかけて考えさせるところに大きな特徴があるように感じます。

テキストの著者はNHKテレビの4回にわたる放送で、以下のサブタイトルで、著者独自の視点で「こころ」に著された夏目漱石の心を紐解いています。その一つ一つが、私の心に共鳴しました。

第1回 私たちの孤独とは

「孤独の時代」の始まり

『私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々は、其の犠牲としてみんなこの淋しみを味はわなくてはならないでせう。』 背景の絵は明治40年の本郷三丁目交差点付近。交差点北側に東京帝国大学ができ、学生で賑わった。明治という「近代」の風景。

明治40年に漱石は、一高と帝国大学の教職を辞め、朝日新聞社に入社しています。朝日新聞社への入社前年に読売新聞からの誘いがあったが簡単に断っています。その後、朝日新聞から招聘の手が伸び、学校教師にさんざん嫌気がさしていた漱石は、当時の朝日新聞主筆池辺三山の人柄と知遇に魅せられて入社に踏み切っています。入社交渉は簡単には進まず、様々な条件を出し、十分納得を得たうえで決断したようです。

第2回 先生という生き方

じっさいに漱石の言葉として「帝大などにはろくな教師はいない」という、漱石自身の苦々しい本心が、文中の「私」の言動に著されているようです。「私」にこう言わせています。「私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思想の方がありがたいのであった。とどのつまりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりも只独りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。」漱石の批判的精神が読み取れるのではないでしょうか。

第3回 自分の城が崩れる時

第4回 あなたは真面目ですか

「真面目な関係性」

「真面目な関係性」

『私は死ぬ前にたった一人で好いから、他人を信用して死にたいと思っている。あなたは其のたった一人になれますか。なって呉れますか。あなたは腹の底から真面目ですか。』

テキストの最後に、姜尚中教授は、読者に問いかける形で、訴えています。

『みなさんには、「自分のすべてを投げ出す」ことのできる「唯一無二のあなた」はいますか—。私自身も含めて、ここで即座にイエスと答えられる人は、おそらくそれほど多くはないと思います。というよりも、今の世の中に満ちているのは、それとは真反対の関係性ばかりではないでしょうか。自分の世界に籠城して、自分を投げ出そうとしない関係性。自分は鎧を脱がず、相手ばかりを裸にしようとする関係性。無防備な相手を一方的に攻撃するような関係性。あるいは、真摯に告白しようとしている相手を受け入れようとしない関係性…。真面目な関係性の対極にある、漱石風に言えば卑怯な関係ばかりが蔓延しています。ですから、その意味でも、『こころ』が訴えていることは、きわめて現代的な問題提起になっているのです。』

教授が例にあげたような関係性が確かに今の世の中にはびこってきていることはうなづけますが、言わずもがなですが、決してそればかりではないのも事実だと思います。「自分のすべてを投げ出す」ことのできる「唯一無二のあなた」を持っている幸せな人は、漱石の時代でもそう多くはなかったかもしれません。

私の高校時代に知り合った友達は、楽しみも共有したり、悩みごとも打ち明けあって(私が打ち明けて相談に乗ってもらった方がはるかに多かった)「唯一無二」ともいえる仲だったように思いますが、彼は医学部に進み、クリニックを開設して医療に専念したのですが、残念なことに体を壊し一昨年とうとう帰らぬ人になってしまいました。大学卒業後は連絡を取り合うこともまれになっていました。しばらく脱力感に襲われ、因果関係は明らかではないのですが、たまたまその時期に患った筋肉・神経の痛みが酷くなり、これまで経験したことがないほど長く整形外科に通う羽目になりました。

「こころ」の主題から話はそれるかもしれませんが、心底信じあえた友人を失うことの重大性という点で共通するところがあるのかもしれません。

 

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