雪の降る街を 内村直也 作詞 中田喜直 作曲

***印で括った部分を追記しました。2016年4月2日

この歌は、1951年12月26日放送のNHK連続ラジオ劇「えり子とともに」の30分の放送時間にあてる脚本が足らずに、急きょ脚本担当の内村が、主人公えり子が会社の同僚と演じる劇中劇の中で、冬の街角に立つ花売り娘に歌を唄わせることにした、その歌だったのだそうです。思いつくままに1番だけ歌詞を書き上げ、音楽担当の若手作曲家中田喜直が曲を付けた。それが「雪の降る街を」だったのです。降りしきる雪に、戦争中の嫌な思い出がかき消され、やがて晴れ間がのぞくーーー歌詞を書いた内村が後年語った言葉に、こんな願いを込めて描いたとあるそうです。

放送劇でははじめ1回だけ歌われたのですが、好評を博してその後番組の中で何度か歌われたそうです。その後、3番まで詩が作られましたが、作詞者の強い思い入れは、3番の歌詞だそうです。

このむなしさを、このむなしさを いつの日か祈らん 新しき光降る鐘の音

この話をご存知の方は多いと思いますが、私は今朝の読売新聞、日曜版の特集記事を読むまで知りませんでした。このラジオ劇が放送開始されたのが私が生まれる1年前、「雪の降る街を」の歌が流れたのが私が1歳そこそこだったので、耳に入っていたとしても記憶には残っていないでしょう。1953年にシャンソン歌手の高英男が歌ったレコードが発売されてから、ラジオや、街の中で耳にする回数が増えて覚えていったのだと思います。講談社発行 金田一春彦・安西愛子編「日本の唱歌(中)大正昭和篇」には、「雪の降る町を、黙々と、しかし胸には暖かいものをもって歩く感じにぴったりで、多くの人に愛好され、歌い継がれた。途中の転調のところが、変化が出来ておもしろく、旋律が単語のアクセントによくあっているところも見事である。」と評しています。同書にはこうも書かれています。「作詞者の内村直也はこの歌一曲の収入が、他の戯曲の作品全部に匹敵すると言われるくらい多く歌われた。」

私は、戦争中の嫌な思い出は体験していないので、この曲が出来たいきさつを詳しく知る由もないのですが、「日本の唱歌」に書かれているような情景がなぜか胸に深く浸みわたるところがあり、小学5年に転校した群馬県渋川市で下校途上で薄暗くなった道をチラチラと降る雪を眺めながらよく口ずさんでいたものです。

山梨大学合唱団で佐々木基之先生の指導を受け始めてから、増田順平先生の編曲された「雪の降る町を」に出会い、私の思い描いていたイメージとぴったりの素敵な編曲なので、とても気に入りました。バスが「ルンルルルルルンルン、ルンルルルルルンルン」と、決して重くはなく、かといってそう軽くはない堅実な足取りを重ねていく上に、テナーが空しいけれども希望を決して失わない響きで「オーオーオー」とオブリガートを付けていき、女声が「雪の降る街を 雪の降る街を」と歌っていきます。

***原曲のピアノ伴奏にある、各フレーズの終わりに付けられた「タタタタンタン」のリズムが現わしている雪の降る街を歩く足取り、決して単調に重いだけではない、希望の光を求めて加速するエネルギーが込められた足取りだと思います。増田先生は、この大事なイメージをピアノ伴奏が付かない混声合唱曲の中にどうしても取り入れたかったので、バスパートの「ルンルルルルルンルン」で、その想いを叶えたのではないかと想像します。

山梨大学合唱団が、佐々木基之先生のご指導を受けて、分離唱により耳をひらいたハーモニーを聴いてみて下さい。
「雪の降る街を」バーグラフ左端の▷をクリックして下さい。

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作曲した中田喜直が愛した山形県鶴岡市は、メロディーの発想の地とされているそうですが、私のお気に入りの合唱編曲をされた増田順平先生も山形県立南高校出身なので、勝手な想像ですが、中田喜直の発想した情景と、共通の情景を体験して、発想を持っておられたのかもしれません。

一、雪の降る街を 雪の降る街を

  思い出だけが 通り過ぎて行く

  雪の降る街を

  遠いくにから 落ちてくる

  この想い出を この想い出を

  いつの日か包まん

  あたたかき幸せのほほえみ

二、雪の降る街を 雪の降る街を

足音だけが 追いかけていく

雪の降る街を

一人こころに 満ちてくる

この哀しみを この哀しみを

いつの日かほぐさん

緑なす春の日のそよ風

三、雪の降る街を 雪の降る街を

息吹きとともに こみあげてくる

雪の降る街を

誰も分からぬ わが心

この空しさを この空しさを

いつの日か祈らん

新しき光降る鐘の音

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