山田耕筰・北原白秋のコンビで作られた数々の名曲の中でも、「からたちの花」は大好きな曲です。

父親が10年間の闘病生活の末、耕筰少年が10歳のときに亡くなりました。その父の意思に従い、9歳より養子に出され、巣鴨にある自営館という内部に夜学を抱えた施設に入れられ、印刷工場で働きながら夜間学業に励むという過酷な環境に身を置くことになった山田耕筰は、辛い目に遭うと、からたちの垣根まで逃げ出して泣いたと自伝の中で述懐しています。

自伝の中の言葉を借用させていただきますが、すり減らした庭下駄のような薄い寄宿舎の弁当では、育ち盛りの胃袋を満たせるわけがありません。たまらなくなると、工場の周囲の畑から、季節折々の野菜を手あたり次第にとって、生のままかじったそうです。

秋になると、色づいたからたちの実に目が輝きました。食べられるはずもないからたちの実は、初めはすっぱくて咽かえるほどでしたが、慣れるとなかなか良いもので、生野菜と一緒に食べると下手なサラダより数等いい味でした。

『工場で職工に足蹴りされたりすると、私はからたちの垣根まで逃げ出し、人に見せたくない涙をその根元に注いだ。そうしたとき、畑の小母さんが示してくれる好意は、嬉しくはあったが反ってつらくも感じられた。漸く乾いた頬がまたしても涙に濡れるからだ。』と自伝にあるそうですが、山田耕筰らしい強がりと、芸術家らしい脚色が感じられる文章だと思います。

こうした、辛い体験を汲んで、北原白秋が見事な詩にしているのですね。詩の意味が、幼少の山田耕筰が味わった、苦くも甘酸っぱい青春の想い出を表現していることが良く理解できます。

「からたちのとげは痛いよ 青い青い針のとげだよ」「からたちも秋はみのるよ まろいまろい 金のたまだよ」karatachi_toge

「からたちのそばで泣いたよ みんなみんなやさしかったよ」

「からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ」

14kara20 こうした数々の資料を見て、苦学の末に大きな業績を残した大作曲家山田耕筰の偉大なプロフィールを読み取ることができるのですが、実は意外なエピソードがあったのです。偉大な作曲家を讃える資料のほとんどは、小学生からお年寄りに至るまで分け隔てなく公開され、「すごいなあ」と簡単の念を禁じ得ないのですが、意外なエピソードとは、いわば生身の人間山田耕筰を語るものだと思います。

NHK出版から2003年に第1刷が発行されている「童謡 心に残る歌とその時代 海沼実著」に、こんな文章を見つけました。「からたちの花」の作曲に際しての記述です。「山田は、その当時、特に目をかけていたソプラニストがいました。彼女の名前は荻野綾子、東京音楽学校出身の歌い手でした。彼女のフランス留学が決まり、別れを惜しんだ山田は、餞別として同作品を贈り、大正15(1926)年6月には、ニッポノフォン(後のコロムビア)で自らが伴奏、彼女に唄わせたレコードまで残しています。このあたりのエピソード、もし厳格で知られた作詞者・北原の耳に入れば、彼の逆鱗に触れかねない話ですが、人間的な温かさを持つ山田ならではの話だと思います。」人間山田耕筰の一面をうかがい知ることができるエピソードですね。

童謡 心に残る歌とその時代 海沼実著

童謡 心に残る歌とその時代 海沼実著

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