思いがけないことから、生態学者であられる高槻成紀先生が書かれた「唱歌『ふるさと』の生態学」という本を知り、取り寄せて読んでみました。言わずもがな、唱歌「ふるさと」は、日本人で知らない人はいないといえるでしょう。筆者は、現在、神奈川県相模原市にある麻布大学獣医学部の教授として生態学の研究に取り組んでいらっしゃいます。20世紀後半の人間による自然破壊があまりにも強くなったことに対する危機感から生まれた「保全生態学」という学問にも取り組まれ、唱歌「ふるさと」に歌われた風景の変化に、深い関心を寄せられて、その変化を「保全生態学」という切り口で読み解こうとされています。

「生態学」というとあまりなじみがないように思いましたが、専門的な内容の展開ではなく、とても分かりやすい話の展開で、そこには学者ぶったところはまったく感じられず、これまで自然を破壊してきた人類の営みに対して強い悔悟の念が感じられ、共感することしきりでした。本の紹介を始めるときりがなくなり、タイトルの趣旨から外れてきますので、本題に戻りたいと思います。興味のある方には、ぜひこの本をお勧めします。唱歌『ふるさと』の生態学」

ヤマケイ新書 「唱歌『ふるさと』の生態学」 高槻成紀著 山と渓谷社 ISBN978-4-635-51020-2

書名が表す「ふるさと」がメインテーマなのですが、読み進むうちに「コラム」として里山をうたった歌が少なくないことを挙げ、私の好きな「朧月夜」を取り上げられていたのです。この歌への著者の想いが書かれていて、その表現の見事さに吸い付けられました。一部を紹介します。

「(前略)私はこの歌が妙に好きだ。「故郷」のほうがイメージがはっきり湧くのだが、この歌にはなんだかパステルカラーのなかに溶け込んだような不思議な世界がある。光がたくさんあるが、直射ではなく、雲の中やあいだを通過し、乱反射しているような混じり合った光だ。菜の花畑にはすなおな黄色が一面に広がる。モンシロチョウがひらひらと飛び、ミツバチが忙しそうに花を訪れる。(中略)

作物として有用であっただけでなく、一面に広がる鮮やかな黄色い花は景色としてもたいへん印象的なものだった。冬が終わって春になり、明るい日射しが射すようになったときに、畑をうずめるように咲く菜の花は人々の心をとらえた。このため和歌や俳句にもよくとりあげられた。

その菜の花畑の黄色い色に重ねるようにオレンジ色の西日が淡い色を注いでいる。遠くを見ると山に霞がかかっている。気持ちよい春風が吹いている。その風の吹く空を見上げると、まだ明るいのに白い月が見える。なんともまぶたを閉じたくなるような心地よい世界だ。

「里わの火影」というのは農家の明かりということであろう。その背後には森がある。「森の色も」とはあるが、この森は雑木林であろうか。あるいはスギの人工林であったかもしれない。その手前に田んぼがあり、その田んぼのあいだに小径があって、農民がゆっくり歩いていく。その田んぼに、あるいは脇を流れる小川にカエルがいてケロケロと鳴いている。それだけではない。小鳥の声もカラスの声も聞こえそうだ。

生き物だけではない、お寺の鐘の音も聞こえる。何軒かある農家には広い庭があって、家の境には生け垣がある。そうした集落の一角の、山に接するあたりにお寺があり、秋になればイチョウが黄色く色づく。(中略)夕方になると「ゴーン」と鐘の音が響く。ラジオもテレビもない、ましてやラウドスピーカーなどまったくなかった時代、農村はまことに静かであった。大工さんが釘を打つ音が遠くまで聞こえた。そうした静かな空間で聴く鐘の音は村中に響き渡った。ラウドスピーカーが録音のチャイムを大音量で流すのではない。自分の知る和尚さんが力一杯鐘をついているのを想像しながら聞いたであろう。あるいは「今日は音が小さいな。体調が悪いのかな」などと思ったかもしれない。

この歌には里山の情景が音を含めて見事に描かれている。とくに二番は里わの火影から始まって五つもの「も」が続くので、歌いながら溢れるようなものがイメージされ、「さながら霞める」という動詞が来てホッとするような気になる。」

どうです? 見事に情景が再現されているではありませんか。もちろん歌の中に現わされた言葉だけではなく、著者が昔体験した里山の印象も織り交ぜて、一つの物語りになっているようですね。

Follow me!