私が最も敬愛する作曲家の一人、信時潔のお孫さんにあたる信時裕子さんが、祖父の遺した膨大な資料を精力的に整理し、祖父への親愛の情を込めて綴られているブログを読ませてもらっています。信時潔は、日本全国小学校から大学900以上の校歌の他各種団体歌合わせて1000を超える歌を作っています。私が信時潔をはじめて知ったのは、栃木県立宇都宮高等学校に入学して、その校歌の楽譜が配布された時です。歴史的建造物といえるような木造の大きな講堂で行われた入学式の中で、当日はまだ名前も知らなかったのですが、音楽教諭の石井信夫先生が弾かれるピアノの力強く雄々しい響きの前奏に心躍ったのを覚えています。その校歌の作曲者が信時潔だったのです。

YouTubeで検索したら、ひょっとしてその高校の校歌に再会できるかもしれないと、淡い期待を持って画面に注目したところ、その校歌には再会できなかったのですが、思いがけないことに「とちぎテレビ」が企画したらしい「ザ舞台」というシリーズもので、その何回目かで宇高の校内合唱コンクールを紹介しているものに出会いました。
栃木県立宇都宮高等学校、地元栃木県民は省略して「宇高(うたか)」と呼ぶ方が自然な感じです。県内有数の受験校ですが、教育指針ともいえる「生徒指標」は、人生の指針として私の心に強く刻まれています。

「和敬親愛」「質実剛健」「自律自治」「進取究明」

いわゆる受験校につきものの「がり勉」という雰囲気は感じられず、文科系、運動系各サークル活動が盛んでもあり、「弊衣破帽」腰手ぬぐいに下駄ばきといったバンカラスタイルも特徴でした。「校内合唱コンクール」は、毎年秋に催される文化祭の一環として、全校の各クラスが一丸となって合唱に取り組む行事です。高等学校のカリキュラムはどこでも同じかどうか知りませんが、宇高の場合、芸術科目として「音楽」「美術」「書道」の中から一つ選ぶ方式でした。各クラスにはそれぞれを選択した生徒が混在するわけですが「合唱コンクール」では、当然「音楽」以外を選択した生徒も一丸となって取り組んだのでした。指揮者はクラスみんなの互選ですが、自ら立候補してクラスの賛同を得て指揮に当たるケースも多かったようです。私もその一人で三年間指揮をやらせてもらいました。ただ音楽が好きなだけで、指揮法も何も特別に勉強していたわけでもなく、がむしゃらに自己流でやっていたことを今思い出すと、赤面の至りです。みんな良くついてきてくれたと感謝しています。

石井信夫先生は、昭和6年に宇高を卒業され、東京音楽学校(現東京芸術大学)でピアノ、作曲、指揮、オーボエを学ばれ、卒業後山形県で高校、師範学校の教諭を歴任後、昭和21年に母校宇高の音楽教諭に着任されました。私が宇高を卒業して5年後の昭和49年まで29年間の長きに亘り宇高で教鞭をとられ、後進の指導にあたられました。戦争の爪痕がまだ残る昭和21年に故郷栃木県に音楽教諭として赴任された石井先生は、「文化不毛の地」と呼ばれていた栃木県を、音楽の実る地にすべく合唱団、管弦楽団の創設をはじめ多大なる努力をされ、大きな足跡を残されました。石井先生のもとで、プロ・アマチュアを問わず多くの音楽家・音楽愛好家が育ちました。私も、音楽科目を選択した一人で、先生の充実した授業を受けたほか、高校では数少ない管弦楽部に入部して、厳しい面もありましたが、教育者としての温かい目で指導していただいたことを忘れられません。IMG_20160516_0001_NEWIMG_20160516_0002_NEW

「校内合唱コンクール」の由来については詳しいことは知りませんが、私の想像ではおそらく石井先生が残された一つの名物行事だと思います。YouTubeで紹介された画面では現在指導にあたっておられる川田先生が説明をされて、コンクールに取り組む後輩たちの姿を見ることができました。優秀な成績を収めたクラスの演奏は、にわか編成の合唱とは思えないくらいの見事な出来栄えを聴かせてくれます。粗削りな音が目立つのは仕方ないでしょうが、燃え立つ若いエネルギーに圧倒されました。

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