男声合唱ファンなら殆どの人が歌ったことがあるでしょうし、多田武彦の作品にぞっこん惚れ込んでいる人も多いと思います。私も男声合唱に限らず、混声の魅力も同じように堪能していますが、男声合唱ならではの魅力は、他に代えがたいものがありますね。高校が男子校だったのため、当然のことながら校内合唱コンクールなど、校内で歌える合唱は男声合唱に限られます。この頃の記憶ははっきり残っていませんが、多田武彦の作品に初めて触れたのが、組曲「柳河風俗詩」の第一曲「柳河」です。大学時代は所属していた合唱団が混声合唱で、いっとき男声合唱曲に触れる程度でしたが、卒業すると女声メンバーは合唱を続けるのが難しくなるらしく、男声メンバー卒業生で編成する男声合唱サークルに入れてもらい、そこで多田武彦の男声合唱曲にふれあうことができました。組曲「富士山」「雨」から、何曲か歌いましたが、組曲「雨」の第六曲「雨」は、いいですねえ。八木重吉の詩が心にジーンときます。多田武彦は、この詩に、ぴったりくる和声の動きをのせています。シーンとした空間にかすかに聞こえてくる雨の音。決して目立たず、情景の中にひそかに溶け込んでいる雨の音。目立たないけれども、雨は、乾いた大地に潤いをもたらし、いきとし生けるものに命を与えてくれる大切なはたらきをしています。その雨の音のように生きて行こうと、テナーソロが歌いあげます。

多田武彦の経歴を見て、「ああ、この人も優秀な頭脳を持ち、音楽とは別の道で立派に社会貢献できるところにありながら、合唱の魅力の虜になった人なんだな」と思いました。京都大学法学部を卒業し、富士銀行(現、みずほ銀行)に入行しています。京都大学法学部在学中も京都大学男声合唱団で指揮をするくらいですから、根っからの合唱人間に違いありません。その頃から、清水脩から薫陶を受けているのですが、銀行に就職して、思いがけないところから、山田耕筰の薫陶を受けることになったのです。

1957年東京に転勤になり、勤務先の支店と取引のあった山田耕筰とその支店とのあいだでトラブルがあり、山田耕筰から支店がクレームを受けていたおりに、多田武彦が趣味で作曲をしていると聞いた支店長の粋な計らいで、多田武彦が顧客山田耕筰の担当に選任され、トラブル解決を命じられたのです。

山田耕筰の自宅を訪問した多田武彦は、誠心誠意トラブルの解決にあたり、山田耕筰もその誠意にほだされたのでしょう。帰り際に、山田耕筰から「君の趣味は・・・」と口を開かれて、多田武彦は祖父から命じられた、芸術の見聞を広めることから、将来ミュージカル映画監督になるために始めた和声楽、楽式論の独学、関西学院グリークラブの名演奏に感動して男声合唱に志向したこと、清水脩先生から受けた薫陶などを話したところ、山田耕筰は銀行の支店長に電話をして、「夕方までいてもらっていいか?」と了解を取ったうえで、「今日の出会いは茶道に言う一期一会だし、自分も老い先の短い年齢だから、若い篤学の君に西洋音楽の事など教えよう」となったのです。(この時の山田耕筰の年齢を記事から推測すると71歳)

多田武彦は、山田耕筰から受けた薫陶として、

「からたちの花」は養護施設の辛かった経験から生まれた

「からたちの花」に込められた作曲技法

日本歌曲の作曲の要点

などを、『山田耕筰先生からの薫陶』(2014年1月31日)として、詳しく書いています。「『からたちの花』に込められた作曲技法」には、大変参考になる事が書いて有ります。この原稿は、加藤良一氏が2014年2月16日付で投稿された「山田耕筰 自伝/若き日の狂詩曲」の終わりに「関連情報」としてリストアップしています。

私が触れた多田武彦の合唱作品には、これまで書いてきたほかに、山梨県富士吉田市に単身赴任していた折に、近くの都留市で活動している男声合唱サークル「土声会」の仲間に入れてもらって歌ったものがあります。そのサークルの代表の方が上智大学で直接多田武彦の指導を受けていたらしいです。「土声会」は、山梨大学合唱団の先輩から紹介してもらいました。

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