「清里~きよさと~」と聞くと私もそうですが、真っ先にイメージするのは「リゾート」「保養地」「行楽地」といったものではないでしょうか。実際に、数多くの別荘が建ち、会社・企業・各種団体の保養施設も多く、夏の避暑地であるばかりか年間を通して全国から利用者が集まるところに違いありません。

20160614伊予ロッジ1

私達、山梨大学合唱団のOB,OGが年一度集まる会場として利用させてもらっている「伊予ロッジ」にも、様々な団体が集まります。私達のように合唱ハーモニーを愛する人の集まりや、ツーリングの途中に宿泊するグループもいます。今年も、ドッ、ドッ、ドッ、ドッと排気音を響かせて続々とモーターバイクが入ってきました。玄関に整然と並べられたツーリングブーツを数えたら25足もありました。ナンバーを見ると殆どが熊谷ナンバーでした。庭に停められた乗用車も、施設側のものと思われるものを除いて21台ありました。ン10年前の私達の姿をほうふつとさせる30人くらいの大学生とおぼしき男女のグループもお互いに連絡を取り合いながら準備を進めている様子がなんとも微笑ましい限りでした。

集合時刻より早めに到着したので、ロッジの周辺を散策しました。ロッジの広大な敷地の入り口近くに石碑と、案内板が建てられているのに目がとまりました。

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石碑には『清里小学校 八ヶ岳分教場跡』と、刻まれていました。隣の案内板には

『「八ヶ岳分教場跡」の碑について 観光地清里高原は昭和の初め頃は無人に等しい荒野でした。昭和13(1938)年4月、東京都の小河内ダム(現奥多摩湖)建設計画により北都留郡丹波山、小菅村から28戸の人々が移り住み、開墾が始まりました。 厳しい自然環境に加え、生活物資も乏しい中での開拓事業でした。その一方では何よりも明日を担う子供たちの通う学校がありませんでしたので、入植者は八ヶ岳開墾事務所長安池興男氏(故人静岡市)に相談、氏の懸命な奔走により資金が作られ、作業は入植者全員が参加し、途中幾多の困難を乗り越え、自らの手で念願の教室が2つの分教場を作りました。(昭和15年7月開校)

開拓は厳しい中にも希望に満ちていました。その最初の仕事が共同作業による学校建設であり、安池所長の心血を注ぐ熱意に呼応し、全員が心を合わせ完成させたことを私達は誇りに思います。 爾来10年余りの歳月の中で多くの子供たちが巣立ちましたが、清里地域発展に伴い、昭和24年11月現在地に移転、分教場としての務めを終えました。平静0年(1998)開拓60周年を記念して碑を建て地域の歴史を後世に伝えます。 平成10年11月吉日 八ヶ岳開拓60周年 記念事業実行委員会

この案内板は故安池興男氏の顕彰を願った酒井平太郎氏(千葉県)の寄付金によって作られたものです。』と書かれていました。

これまでリゾート地として捉えていた清里にこんな歴史があったのかと、驚くと同時に、もっと当時の状況を知りたくなりました。歴史というものは、或る史実を断片的に見るだけでは単なる「ものしり」にすぎず、そこから何も得られません。その時代の流れを知り、その時代の人々の心を察することにより、現在の自分の立つ位置をよりしっかりと捉えることができ、自分たちの行動基準の支えとなり、なすべきことを過たずに選択することができるのではないでしょうか。

さっそく自宅に戻り、とりあえずインターネットで「八ヶ岳分教場」と、関連する情報を検索しました。

[歴史的背景] 1923(大正12)年に発生した関東大震災で甚大被害を被った首都東京市の復興が進められるのと併せ、人口増加が進み、水不足が深刻な問題となりました。その対策として、昭和6年、小河内ダムの計画が明らかになり、翌年建設が決まりました。ダム建設により、水没する山梨県北都留郡丹波山村と小菅村の住民、および東京府下小河内村住民の合わせて28家族が、県の要請を受けて、昭和13年念場原・八ヶ岳地区に入植したのをはじめ、昭和20年、同22年と、この地区一帯の開拓へ向けた入植が続きました。昭和13年の最初の入植は、震災後の復興につながる都市部の水不足解消が第一の要因ですが、当時、不況にあえぐ農民の補償金目当てもあったという説もあるようです。

昭和20年の入植は、食糧増産のため県が募集したもので、応募者の大部分が元都市生活者で農業経験不足の上に、寒さと食料不足に耐えられず、1か月で大半の人が離脱したそうです。昭和22年の入植は、県の食糧増産計画に従ったもので、戦後の混乱が収まったころであり、応募者には農業経験者が多く、定着率が高くなっているそうです。

[開拓の苦悩] 外気温ー20℃、屋内でもー12~3℃という過酷な冬の寒さに加え、炭小屋のような笹小屋での越冬は非常に厳しく、暖を取るために囲炉裏で燃やす松の根から出る松脂の煙で顔は真っ黒、目は赤く腫れ、体は臭く匂ったと記録されています。最大の苦しみは水汲みで、遠くから天秤棒で担いで運ぶ水は貴重品でした。食事は常に貧しく、ライ麦にわずかなコメや、人参・大根を混ぜたご飯を炊き、動物性蛋白源は蛇、兎、雉など犬猫以外は何でも食べたらしい。

[分教場の建設] 入植地から最寄りの清里尋常小学校までの道のりは遠く、峠を越え谷を渡る5~6kmの通学は困難を極める。その上に、清里尋常小への通学の障害となったのが、開拓民へ対する地元民の差別意識であった。身なりは貧しくボロをまとい、暖を取った松脂の煙の匂いが見に染みつき、弁当は麦や稗の混じったご飯であり、地元民の子供たちからいじめられ、蔑みの目で見られる状況では登校拒否が起きるのは当然のことでしょう。

こうした状況から、開拓民は分校建設を考えるようになり、資金調達に奔走し、あげくは不足する工事費用を開拓民自らの勤労奉仕により、昭和15年7月、念願の後者が落成した。51名の児童による複式2学級編成で、職員は2名で発足した分教場で学んだ人たちは今どうしていられるのでしょうか?厳しい環境の中での生活ですから、すでに亡くなられた方も多いと思いますが、こうした歴史を出来得る限り、遺しておいて欲しいものだと思います。

 

今、私たちが清里周辺の施設を便利に利用できるのも、昭和初期、この地域の開拓に苦闘の日々を重ねた人々の尊い生きざまがその礎となっているということを頭の片隅に入れておくことが大切だと思います。

この歴史を紐解いているときに、心をよぎったものが「讃美歌536 むくいをのぞまで」です。開拓者の中に讃美歌を口ずさんだ人がいたかどうか知りませんが、この詩の心そのものを実践していたように思えてなりません。IMG_20160616_0001

参考文献:「清里の開拓を語る」八ヶ岳南麓景観を考える会 平成17年7月

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