NHK教育テレビ「NHK人間大学」というシリーズもので放送された番組の中で1997年4月から6月に、講師を作曲家団伊玖磨が担当した、「日本人と西洋音楽 異文化との出会い」という番組がありました。放送そのものの記憶は残っていないのですが、その時に出版されたテキストには、大変興味深く、かつ大いに参考になることが書かれていて、大切に保存しています。このテキストを読み返すたびに、団伊玖磨は作曲家として多くの業績を残しているばかりでなく、音楽学者と呼んでも差し支えないくらいの博識ぶりに感心させられます。文章を書く力にも長けていることは続々と出版された随筆集「パイプのけむり」を読んでもうなづけますね。「パイプのけむり」は、私もそのすべてではありませんが、嘗て愛読した覚えがあります。P1020691

放送テキストは12回にわたって編集されています。次にその内容を紹介しますが、実に見事な構成で当時550円で購入した放送テキストには勿体ないくらいの貴重な内容が盛られています。

第1回 音楽伝来のあけぼの

第2回 南蛮音楽の渡来

第3回 ペリーと軍楽隊

第4回 五つの「君が代」

第5回 唱歌の誕生

第6回 全国に広がる唱歌

第7回 軍楽隊が育てた器楽

第8回 山田耕筰~日本語と音楽の技法

第9回 大衆音楽の時代~レコード・ラジオ・流行歌

第10回 オペラとオーケストラの系譜

第11回 戦時下の音楽

第12回 現代日本の音楽と私

今回は、この中で特に印象に残った「山田耕筰」について書いてみました。

日本人が西洋音楽を学んで日本の音楽文化の近代化に取り組んだ草分けともいえる滝廉太郎の七年後に生まれ、「からたちの花」「この道」「待ちぼうけ」「赤とんぼ」など多くの人々に知られている歌曲・童謡の作曲ばかりでなく、歌劇・管弦楽曲・室内楽曲とその作品はほとんどの分野にわたって膨大なものを残しています。しかも、彼の業績のすごいところは、作曲活動を行う一方で、それを表現するためのオーケストラをつくり、歌手を集めて歌劇団を作ろうとした活動もあるのです。

このテキストには書かれていませんが、山田耕筰が生まれ育った時代には、日本に西洋音楽が入ってまだ日が浅く、まだ一部の限られた日本人しか音楽を教養として楽しむことはできなかったし、文部省が教育課程に唱歌を取り入れたものの、日本語の持つ独特のイントネーションをいかした音楽はほとんど見られなかったようです。山田耕筰自身も、教会での讃美歌を通して西洋音楽を身につけていきましたが、彼が着目したのが日本語の抑揚でした。財閥三菱の岩崎家の援助を受けドイツに留学し、4年間ドイツのベルリン大学で作曲を学んだ山田耕筰は、ドイツで学んだ作曲理論をしっかりと踏まえたうえで、日本人の心にしっくりする音楽を創ろうとしました。日本語の抑揚とメロディラインの抑揚を一致させることが、音楽の中で日本語を生かすことだと考えたのです。

「言葉の抑揚に、旋律の抑揚を合わせる」 これが山田耕筰が独自に打ち立てた音楽理論の一つであり、「からたちの花」を代表とする彼が作曲した歌曲の特徴であり、私をはじめ、多くの人々に愛されるゆえんだろうと思います。

もう一つの彼の音楽理論が、「一音符一語主義」といわれるもので、ゆっくりしたモデラートの場合には適していますが、より速い言葉、より速い音楽の動きを生まなくなってしまうという、問題点が、今回のテキストの中で指摘されています。

山田耕筰が作曲活動を開始した大正時代のもつはかなげなロマンチシズムとは、良く響き合っていたかもしれないですが、時代が変わり、時代のテンポに合わなくなってしまうという問題を次の時代の作曲家たちは、彼によって投げかけられていたとも考えられないことではありません。

「民族性というものは言葉にある」というのが、山田耕筰の持論であり、民俗音楽の妙味は言葉と音楽の結びつきにあり、踊りのリズムなどにあるのではないといっていたとのことです。ロシアの音楽はロシア語と切り離すことができず、シューベルトの音楽とドイツ語、ヴェルディの音楽とイタリア語も切り離せない。だから自分の音楽も日本語と切り離せないのだと言っていたそうです。

これまで書いたように、音楽と言葉との結びつきを考える人は山田耕筰以前には誰もいなかったようで、この点だけでも山田耕筰は偉大なパイオニアと呼べるだろうと書かれています。

もう一つ山田耕筰が実行した大きな仕事が、オーケストラと歌劇団の組織であったそうです。ドイツ留学中に、早くも書き溜めていたオーケストラ曲の多くを具現化するためにオーケストラをつくろうと動きました。資金援助の打ち切りにより2年足らずで解散に追い込まれましたが、山田耕筰の情熱はいささかも衰えることなく、奔走を続け、大正14年に、現在のNHK交響楽団の前身の一つである日本交響楽協会の設立にこぎつけることができたということです。

山田耕筰は、オーケストラづくりに止まらず、歌劇団の組織も進めました。P1020693

以上かいつまんで書いてきたので言葉足らずでわかりにくいところが多々あるかと思いますが、山田耕筰は、作曲と演奏団体の組織という両面から、日本近代音楽の基礎を築いてきました。

最後に、団伊玖磨が書いたテキストの一部をそのまま引用して、この稿をひとまず締めくくりたいと思います。

「・・・この二すじの道を一身に背負って、生涯歩み続けたその姿は、ほんとうに尊敬に値します。音楽の世界においてわれわれは今、どんなに幸せなところにいるか。われわれはみな、山田耕筰というパイオニアの恩恵に浴しているのです。」P1020692

普段、私たちは当たり前のように音楽を楽しんでいますが、明治の終わりから大正、昭和の初期にかけて築きあげられた日本の近代音楽の基礎の立役者山田耕筰に感謝せずにはいられません。団伊玖磨が書いたテキストの最後の言葉に、しみじみと胸を打たれます。

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