山田耕作が残した数多くの歌曲の中で、私が最も親しみを持っている曲が、「からたちの花」です。実を言えば、私とこの曲との関わりは、山田耕作が残した「歌曲」の形ではなく、病床に臥せられていた山田耕作を励ます形で増田順平先生が編曲された混声四部合唱曲を聴いて、この曲の素晴らしさに感動させられたのが始まりです。それまで恥ずかしながら山田耕作という作曲家についてほとんど知らないに等しかったのですが、こんな感動的な曲を創った山田耕作の生涯について、もっと深く知りたいという気持ちが募り、手に入れられる資料を調べていくうちに、オリジナルの独唱曲「からたちの花」との関わりが深くなってきたという次第です。

こうした関心の深まりと並行して、毎月2回実践している声楽レッスンの課題曲として選択した「からたちの花」を歌っていく上で、講師のアドバイスがとても勉強になるのですが、それに加えて私がこれまで持っていたイメージをミックスさせ、私なりに「からたちの花」をどう歌えばいいのか試行錯誤を繰り返すうえで、もっと視野を広げて、いろいろな人の演奏を参考にさせてもらわなければならないと気が付きました。

YouTubeという、とても便利なツールが利用できるのは嬉しいことです。「からたちの花 独唱」で検索すると次々とヒットします。ソプラノ、テナーと様々な人が様々な歌い方をしていることがパソコンの前に座って聴くことができるのですから便利な世の中になったものだとつくづく実感させられますね。

様々な歌い方というのは、歌う人が「からたちの花」という音楽をどう理解しているかによって全く違ってくるものだと思います。この曲が作られた背景となる山田耕作の人生経験、そして山田耕作との交流を重ねる中で、彼の人生経験からくる感傷を汲み取った北原白秋が綴った歌詞。こうした背景となった人生経験を知り、それと同じ経験をすることがないにしても、受け取る人なりに自己の経験・知識と照らし合わせて共感を持つことが出来て、この芸術歌曲の深い味わいをより一層受け取ることが出来るのではないかと思います。

音楽を聴く時に、先入観を持って聴くことは良くないと言われていますが、確かにそれは一理あると思います。それは先入観によって、自由な感受性を阻害されるからにほかなりません。先入観と言ってしまうとマイナスのイメージになってしまうことが多いと思いますが、予備知識といった方が良いかもしれません。

からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ

からたちの棘は痛いよ あおいあおい針の棘だよ

からたちは畑の垣根よ いつもいつも通る道だよ   訂正:「畑」を「端」に間違えていました。

からたちも秋は実るよ まろいまろい金の玉だよ

からたちのそばで泣いたよ みんなみんな優しかったよ

からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ

いつも通る道端に咲いた、白いからたちの花を眺めた山田耕作の胸に湧いてくる感情は、単に白いからたちの花を即物的に捉えたものにとどまりません。からたちの棘も同様です。10歳で父の死にあい、印刷工場で働くことになった耕作少年に降りかかる工場の先輩たちから受ける棘の痛みは、いつもいつも繰り返されるのです。でも、からたちの花は自分を苛む厄介者であるばかりではなく、秋には、まろい、まろい金の玉が実り、その深い愛情に涙することが胸に刻み込まれているのです。

山田耕作のこうした人生経験を知ることによって、北原白秋が見事に綴りあげた言葉には、深い奥行きが感じられ、山田耕作が噛み締めた、甘酸っぱくもあり、ほろ苦くもある感情が、その言葉の抑揚に合わせつつ、織り上げられたこの旋律の上に浮かび上がってくるのだと思います。

こうしたことを頭に置いて「からたちの花」の演奏を聴いたときに、私の感覚では一番すんなりと聴けたのが、波多野均(1948~)の演奏でした。

SPレコードに刻まれた藤原義江(1898~1976)の演奏を聴くと、歌いだしが「あらたちの、あなが、あいたよ」と聞こえてきます。イタリアのベルカント唱法をしっかりと勉強した成果でしょう。美しい発音には違いないのですが、一音一音が切り離されて唄われていて日本語で語りかけるものとは別物のような気がします。

同様にSPレコードですが奥田良三(1903~1993)の演奏になると、日本語独特の味わいがある程度表現されてくるように思います。

最近の歌手、上条恒彦(1940~)の動画を見ると、精神的深さの追求が、観客動員数の拡大という誘惑に負けてしまっているような気がします。コンサートのアンコールに応えて歌ったらしいのですが、この人の素晴らしい歌唱力が活かされるのは、もっと別の曲のように思います。

ソプラノ歌手の演奏も差別なく聴くべきだと思い、三人の演奏を聴いてみました。単刀直入に言ってしまえば、この曲が生まれた背景を考えると、私にはどうしてもソプラノ歌手の歌声ではしっくりきません。森麻季(1970~) 中沢桂(1933~2016) 安田祥子(1941~)の演奏は、それはいずれも美しく聞こえるのですが、精神的深さを感じさせる演奏には思えませんでした。難しいことは抜きにして、美しい歌い方の一つのモデルとして聞く分には申し分ないのかもしれませんが、欲張りかもしれませんがもう少し曲の内容について研鑽を深めてもらえたらなあと思いました。

プロの演奏家は、多忙な演奏生活に追われて、深い研鑽を積む時間が取れないのかも知れません。まして現代のように情報化が進んだ社会においては可能であると考えられることも20世紀初頭では不可能だったかもしれません。現代にしても演奏一筋のプロの演奏家よりも、教壇に立つ機会が多い研究者タイプの人の演奏でないと難しい音楽もあるんだなあと思いました。

 

 

 

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