激動の明治に活躍した文豪夏目漱石は「吾輩は猫である」「三四郎」「坊ちゃん」をはじめ、その多くの作品でよく知られていますが、その人物像について私はこれまで、彼の作品を通して勝手にそのイメージを作っていました。夏目漱石の妻鏡子さんが語り、漱石の長女筆子さんの夫、松岡譲氏が筆録した「漱石の思い出」を読み、これまで知らなかった漱石の素顔、人柄(夫人の目から見たものですから主観的なものが多いと思いますが)に触れることができ、以前、オークションで安く手に入れて、急がずともいずれは読破しよう思っていた全集を読むことより先に読み通してしまいました。

文春文庫刊              1994年7月10日第1冊               2016年9月25日第14刷

実に様々な事柄が詳しく述べられているのに感心しました。流石に文豪漱石と20年間、寝食・苦労を共にした人だからこそ成し遂げることができたのでしょう。鏡子さんの経歴を詳しくは知りませんが、貴族院書記官長を務められた中閑重一氏の長女ということですから、かなり高いレベルの知識階級の人だったかと推察します。

文庫本の巻末に添えられた、漱石の孫、半藤末利子さん(漱石の長女筆子の四女)の言葉を借りると、『筆子自身もよく殴られたが、おおかた髪でも掴まれて引き摺り回されたのか、髪を振り乱して目を真っ赤に泣きはらして書斎から走り出てくる鏡子を、筆子はよく見かけたものだったという。世間では鏡子はソクラテスの妻と並び称されるほどの悪妻として通っているが、母(筆子)に言わせれば、鏡子だからあのそうせきとやっていけたのだと、むしろ褒めてあげたいくらいのことが沢山あったのだそうである。』 天才肌の人物談には珍しくはないエピソードの一つに『狂気沙汰』という一面があるようですが、それが文豪漱石の評判を落とすまでには至らないようです。半藤末利子さんの言葉を続けます。

『漱石が鏡子と生活を共にした20年間、一日も欠かさず漱石が狂気の沙汰を演じたわけではない。周期的に訪れた”狂気の時”の方が遥かに短いのである。しかも自分は小説家だから、常軌を逸しても許されるのだとか、ものを書けないイライラを家族にぶつけてもよいのだという傲慢さや身勝手さを、漱石という人は微塵も有してはいない。彼を恐ろしい人に変えたのは神経衰弱という病気であって、頭が妙な膜で覆われていないときの生の漱石は、稀にみる心の温かい物分かりの良い優しい人だった、とも母はよく言っていた』そうです。この言葉を読んで、漱石という人の生身の姿がおぼろげながらも浮かんでくるような気がします。興味深かった一つには、第61節「臨終」に続く第62節「解剖」には、鏡子夫人の言葉ではありませんが、彼女の選択として「漱石の病気の経過など詳しく専門的に述べられているので、大変参考になろう」と、専門家長与医学博士による「夏目漱石氏剖検」として講演されたものの筆記が載せられています。このあたりにも、知識階級の人ならではの一面を強く感じた次第です。

漱石の最期の言葉としてつたえられているのがあります。一つは、漱石の次男、夏目伸六著「父、漱石とその周辺」にあらわされているものですが、息を引き取る数時間前の漱石は、『何か食いたい』と言い、医師の許しを得て、葡萄酒を一匙口に含み『うまい』と言って、静かに目を閉じた。随筆家夏目伸六氏によると、こう文学的にまとめられるのでしょうが、私は、もう一つ別に最期の言葉として伝えられているものの方を人間味がこぼれるようで好きです。息を引き取る数時間前の漱石は寝間着の胸をはだけて、『ここに水をかけてくれ。死ぬと困るから』と。立ち会った四女愛子が泣き出し、周囲のひとがなだめようとしますが『いいよ、いいよ、もう泣いてもいいんだよ』

最後の最後まで、人間味のこもった言葉を、小説だけでなく、周囲の人々に与え続けてくれた漱石の偉大さを改めて強く感じた次第です。

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