私が子供の頃、家で購読していたのが朝日新聞だったのですが、その当時は思想的なことなど考えたこともなかったし、新聞というものを単に情報を得る手段としてしか見ていませんでした。慰安婦問題で浮かび上がった、あまりにも偏向した新聞社の姿勢に呆れて、以来他新聞に切り替えると同時に、いずれの新聞にしても、その記事で書かれていることを鵜呑みにしないで、冷静に、その中の事実と思われることを見極め、この新聞はこういう風に捉えているのか、と見るようになりました。

新聞社の姿勢は兎も角として、「天声人語」のコラムは、私のお気に入りの一つです。直近の「山の日に寄せて」を読み、その書かれている内容に共感したことを綴ってみようと思います。多くの人がご存知のように、「天声人語」の文章は、日本語の模範的なものとして捉えられ、大学入試にも度々取り上げられるなどしていますね。

今回、私が目を停めたのは、山に魅せられた随筆家の故・串田孫一さんの言葉「山の中で人は蟻(あり)のようになる」を取り上げているものです。「蟻が登っても大木が動じないように、人が登っても山が表情を変えることはない。まるで太古から変わらぬかのような山肌がある。『人は山で小さなものになり始める。儚いものになり始める。』大きな自然に包まれ、解放され、興奮する。そんな気持ちを味わうために山へ向かうのだと、著書「若き日の山」にある。」

大自然の中に存在している人間の姿を見事にとらえていて、至言であると思います。太古から人類は自然を利用して、生活を営んできました。よりよい生活を望むのは本能のなすことで、自然な成り行きかも知れません。科学技術が発達して、最早、太古の時代の人類には想像もつかないほどの快適な生活を享受しているのは間違いのない事実でしょう。私もその一人ですので、勝手なことは言えませんが、現代の人類の営みを大きく括って眺めると、自然との調和を最早逸脱しているかのように見えてなりません。

医学が進み、寿命が延び、その結果、人口が増えていくことは当然の成り行きでしょう。増えた人口を賄うために施政者が食糧確保に算段するのは当たり前のことかもしれませんが、他国の領土、領海にまで手を伸ばし、他国の市民の生存権を脅かす暴挙は許されるはずがありません。地球上の限られた資源を見つめ、全人類がこの資源を分かち合って、自然と共存していくためにどうすることが最適なのかということを考えるのが施政者の果たすべき役割であり、また施政者のみならず、一人一人の市民が心がけることではないでしょうか。世界の歴史を振り返れば、良くも悪くも繁栄した(繁栄という言葉は不適切かもしれません)国家が弱小国を侵略していくのは自然の成り行きだったかもしれません。しかし長い歴史を知ることができ、叡智に長けた現代の人類が、愚かな歴史を繰り返すことは、あってはならないことだと信じたいと思います。

事故や遭難が心配な季節であることにも触れています。「山が高くても低くても、人間の小ささを心にとめたい。スマホやGPS機器などの最新の道具で、安全が保証されるわけではない」まさにそのとおりですが、私もそうですがこういった便利な道具が誕生すると、安全に対する感覚が鈍ってくる傾向があり、ともすれば安全が保証されるかのような錯覚におちいることもあると思います。確かに安全を確保するための一つの方法を提供する機材には違いはありませんが、こうした機器を妄信せず、賢く利用することと併せて、目の前に起こりうる状況を、怠りなく把握することによって、危険を未然に察知し、決して自分勝手な行動はとらないということが、現代に生きる私たちの心すべきことだと思います。

年齢に応じて体力が落ちてきていることで山に登って考える時間がほとんど取れなくなった私ですが、山に登るという意味には、こういう一面があったのだということをあらためて考えさせられました。山に登ることがなくなっても、こうした視野を持って周囲を眺めることの大事さを忘れないようにしたいものだと思いました。

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