1982年に東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程に入学した小山実稚恵さん、この年モスクワで開かれた第7回チャイコフスキー国際コンクールで第3位入賞を果たし、その3年後、1985年ワルシャワで開かれた第11回ショパン国際ピアノコンクールで第4位入賞を果たしました。デビュー30周年を迎えたとされているのが2015年ですから、チャイコフスキーコンクール入賞がデビューではなく、大学院を卒業した1985年がデビューした年なんですね。

仙台で生まれ、盛岡で幼少期を過ごした小山実稚恵さんは、2011年、彼女の故郷である東北に甚大な被害をもたらした東日本大震災で大きく心を痛めました。

「人生観が変わるほどの悲しみでした。しばらくは自分の無力さに打ちひしがれ、自分にできることなどあるのだろうかと考えていました。言いようのない理不尽さに、気持ちの整理もつかず、ただ茫然とテレビ報道を見ているだけでした。音楽は生きる力をくれる、音楽は素晴らしいものだと思ってきたけれど、こんな時には、何の助けにもならないではないか。でも私にできることは、やはりピアノを弾くことしかない。被災地の人たちに希望や勇気を届けることができるのなら、どんな場所に行ってでも弾かなければ。そう心に決めました。」震災2か月後に、現地の知人やボランティアの方たちと連絡を取りながら、被災地に行き、苦難を強いられている多くの人々に勇気や希望を届ける活動をはじめ、それは今も続けられているようです。

被災地でよく弾く曲の一つがリストの「ラ・カンパネラ」だそうです。時を告げるときや大事な時に、人々が鳴らしてきた教会の鐘。時を超え、未来へと鳴り響く鐘の音を表現する音楽に、復興への祈りを込めているのだそうです。

「生きることに必死のときは無理かもしれない。でも、ほんの少し、心に余裕が余裕ができたとき、乾いた地面が水を吸収するように、音楽は心にすうっと沁み込んでいく。音楽とはそういうものではないでしょうか。」まったく同感です。死ぬか生きるかの瀬戸際では、人の心は音楽を受け入れるゆとりは無く、音楽は無力かもしれません。でも、ほんの少しでも「生きていくんだ」という意識がよみがえったときに、勇気づけてくれる音楽というものはあると信じています。

世界で活躍する日本人音楽家が多くいますが、西洋音楽の本場へ留学する人が多い中で、小山実稚恵さんは珍しい存在かも知れません。彼女の先生は、6歳から指導を受けた盛岡在住の吉田見知子先生と、芸大付属高校入学以来指導を受けた田村宏先生の二人だけです。でも、この二人がただものではなかったんだと思います。彼女に教えたものは音楽だけではなく、人間としてどうあるべきかという大切なことを教えたのだと想像します。

小山実稚恵さんがピアノを始めたきっかけは、3歳のときに買ってもらった2オクターブ半のおもちゃのピアノで遊ぶところから始まります。おもちゃのピアノと言っても色々ありますが、現在のような電子音が鳴るものは当時は無かった。ある程度年配の方は覚えていらっしゃると思いますが、子供の指に合わせた大きさで、白鍵に対応した音だけが出て、隣り合った白鍵に黒鍵の絵だけが描かれているものですね。このおもちゃのピアノで遊ぶのが大好きだった彼女が、子供の頃を回想する言葉の中に「黒鍵を押すと二つの音が出てしまうんですね」とあります。自分の持つイメージは黒鍵に相当する音を要求していたのでしょう。当時の音楽的環境がどういうものであったのか知る由もありませんが、おもちゃとはいえピアノが与えられるところは流石に音楽的に恵まれた家庭環境であったに違いないと思います。(余談 50年余りの技術の進歩に驚きました。写真の赤いおもちゃのピアノは2オクターブ半32鍵。黒鍵も絵に描いた餅ではなく、ちゃんと動きます。精密加工・組立技術進歩のおかげです。音源はアルミパイプを叩く構造ですから、調律も必要ありません。1万円何某で買えるのですから驚きです)

「物心がつく頃には、時間を忘れて鍵盤をたたいて聞き覚えの童謡の旋律をなぞり、色水遊びでもするように音が交じり合い、響きが重なるのを楽しんでいました。」失礼な言い方だと思いますが、音楽的にはかなりませて居られたのだと思います。彼女の父親は、専売公社の専門職員でタバコの葉のブレンダーをしていらしたように何かで読んだ覚えがあります。音楽ではないけれど香りのハーモニーを作り出すという芸術家肌の仕事をされていたんですね。音と香りの違いはあっても、ハーモニー感覚を生まれたときに既に持っていらしたのかなと思います。

 

当然の成り行きでしょう。おもちゃのピアノでは飽き足らずに本物のピアノをねだるようになりますが、本気でピアノを長く続けていく覚悟が出来ていると見極められたご両親に、6歳の誕生日のお祝いにアップライトピアノを買ってもらいました。専売公社の社宅住まいという事情ですから、アップライトでもかなりの存在感があったことだと思います。母親が盛岡市内の数あるピアノ教室を訪ねて回り、吉田見知子先生の発表会が自由な雰囲気で、子供たちが楽しそうで自由な雰囲気なのを見て、ここならばと思ったそうです。

吉田見知子先生を私は寡黙にして知りませんが、小山実稚恵さんの回想によると「リズム遊びなど音感教育をいち早く取り入れながら、『ピアノの練習がどんなに大変でも勉強や行事など学校のことをきちんとやりなさい』『素敵な演奏に耳を澄まし、上手な人を心から祝福して心からの拍手を送りなさい』『広く社会や世界に目を向けて豊かな人間になりなさい。そこから豊かな音楽が生まれる』と教えられ、音楽も一層好きになりました。音楽を深く知ることはもちろん大切なことだとは思いますが、音楽だけに偏らず、全人的に幅広い視野と、感性を持ち、人の痛みや喜びをを分かち合えるような豊かな人間性の醸成を目指しておられた先生であったのではと想像します。佐々木基之先生が目指しておられた「人間づくりの音楽教育」と相通ずるところがあるように思います。

世界的に有名なピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクールと、ショパン国際ピアノコンクールの二大コンクールに日本人として初めて入賞した実力者でありながら、決して驕り高ぶることなく、今も「もっと素敵な音が鳴らせるかもしれない」と、探求する心を持ち続けていられる小山実稚恵さん。2016年5月5日に金沢市の県立音楽堂で開かれた「ラ・フォル・ジュルネ金沢2016」でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を弾き終えた後の、聴衆の鳴りやまぬ拍手に何度も何度も楽屋とステージを往復し深々と頭を下げていた様子がyoutubeに投稿されているのを見つけました。そのあとのサイン会では、サインを求めた人一人一人に、色紙なり、パンフレットなりを両手で捧げて、感謝の笑みを満面に手渡していられる姿を見て、観音様の姿のように見えたと言ったら言い過ぎでしょうか。

サントリーホール30周年にちなんだインタビューの様子もyoutubeで見ることができました。この中でも、彼女の人柄をよく表している言葉が印象に残っています。サントリーホールの印象を問われて曰く、「世界的に有名な数々のピアニストが魅いたピアノを、私のようなものが弾くことができるということを大変うれしく思っています」実に慎ましい言葉ではありませんか。こうした気持ちを持ち続ける限り、彼女は更にさらに大成してゆくのだろうと思いました。

 

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