昨年に続き、今年も10月7日栃木県立宇都宮高等学校音楽部OB会に参加し、また新たな刺激を受けてきました。明治12年に制定された教育令に則り、栃木県師範学校予備校が分離改組され、栃木中学校となり、来年が創立140周年を迎えるのに合わせて、様々な行事が予定されているようです。その一環として音楽部のコンサートも例年より規模を大きくしたものをやろうと2年越しで練習に取り組んでいます。オーケストラと合唱は、現役とOBとの合同演奏で、オーケストラはベートーヴェンの第7交響曲全曲、合唱は清水修の組曲「月光とピエロ」の全曲をプログラムの一コマとして演奏するのです。私の在校中は、合唱部として年間を通した合唱への取り組みは無くて、私はオケの中でチェロをギコギコ鳴らしていました。チェロの前から2列目、一番左が、かの有名な作編曲家であり、ピアニストの倉本裕基の若かりし頃です。ティンパニは、昭和25年に宇高に管弦楽団を創設した頃、楽器がなかなか手に入らない状況の中で、石井先生が自らドラム缶を改造して作り上げたもので、今も大切に保存されている宇高生にとっては貴重な文化遺産です。合唱をやったのは毎年秋の文化祭に行われる、クラス対抗の合唱コンクールに向けて無我夢中で取り組んだこと。和声も指揮法も学んだことがなく、まさに無手勝流でチャレンジした私の指揮にクラス全員が良くついてきてくれたと、深く感謝しています。選曲も任せてもらい、聴きなれない曲ですが譜面づらをみて、詩の内容、旋律の動きなどから、歌えそうだなと判断して決めました。そして、三年生の中から選抜されたメンバー40人くらいの臨時編成の男声合唱。そのメンバーと市内の女子高との合同で、混声合唱をやらせてもらいました。野郎ばかりの学校でしたから、この混声合唱は、多くの同級生から羨ましがられました。これだけの経験でしたが合唱の魅力というものにも憧れを感じていました。

音楽教育に情熱を傾けて居られた故石井信夫先生の指導により3年間の音楽授業の一環で「コールユーブンゲン」を1冊終わらせたことによって身についた視唱力は自分にとって、ものすごい力になっています。普通高校のカリキュラムの中に、コールユーブンゲンを入れているというのは珍しいと思います。当然のことながら、限られた授業時間の中でコールユーブンゲンに充てる時間はわずかです。家にピアノなど楽器がある生徒は恵まれている方ですが、下宿して通っていた私には、休み時間や、放課後に練習するしかありませんが、誰に指示されたわけでもないのに、何故か一所懸命に練習して唄えるようになりました。そのおかげで所見の楽譜でも、楽器で音を取らずに歌える歓びを思うと、石井先生への感謝の気持ちもまた一入です。

高校3年間に与えられた時間は誰もみな同じですが、学科の勉強にかける生徒もいれば、私みたいにクラブ活動や、音大に進む以外は進学にまったく役立たないことに惜しみなく時間をかけていた生徒もいて実に様々です。学業に集中して勤しんで東大、京大、北大、東北大など名高い大学へ進んだ同級生が大勢いますが、私には、そんな一流大学へ入りたくても入れる力はないので、それで良かったと思います。山梨大学へ進んで、本業の精密工学と、合唱生活とを両立できていたかどうか自信はありませんが、本業、合唱それぞれに素晴らしい先生方に巡り合え、私なりに納得できる学生生活を過ごし、現在の生活をエンジョイできているのだと思っています。

ヴァイオリンとかフルート、トランペットとかの楽器をやっているメンバーの中には、個人で楽器を持っていて、学外でレッスンを受けているメンバーもいたようなのですが、自分の楽器を持ちレッスンを受けるような余裕のなかった私は、学校にあった楽器を借りて、週に何回か放課後に練習を続けていたものです。卒業と同時に楽器に触れる機会もなくなり、進学した山梨大学で盛んな活動を繰り広げていた合唱団に刺激を受けて、それ以来合唱にのめり込むようになってしまいました。もし、私が経済的に恵まれた家庭にいて、自分の楽器を持っていたら、私は梨大のオーケストラに入っていたかもしれないし、分離唱にめぐりあうこともなかったと思うと、まさに人生、塞翁が馬だなと強く思います。

それはさておき、昨年のOB会では、「月光とピエロ」の第1曲「月光とピエロ」、第2曲「秋のピエロ」をほぼ仕上げて、今年は残る第3曲「ピエロ」第4曲「ピエロの嘆き」第5曲「月光とピエロとピエレットの唐草模様」をほぼ仕上げました。現役の合唱部の生徒さんが18人ほどいて、それに助けられてOBも、男声合唱の迫力ある響きを持った音楽を堪能することができました。

まだ、一年先のことですが、創立140周年記念行事でまた現役生および大先輩、そしてその中間のOBの方たちと一緒に音楽に浸り、その後の歓談に浸れることを楽しみにしています。

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