宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」を観られた方は多いと思います。

「私はその空気の振動を全身に快く感じながら、首が痛くなるのも忘れて空を仰いでいた。試作機は、やっと自由な飛行が許された若鳥のように、歓喜の声をあげながら、奔放に、大胆に飛行をくりかえした。ぴんと張りつめた翼は、空気を鋭く引き裂き、反転するたびにキラリキラリと陽光を反射した。 私は一瞬、自分がこの飛行機の設計者であることも忘れて、「美しい!」と、咽喉の底で叫んでいた。」(堀越二郎著「零戦 その誕生と栄光の記録」より)

映画「風立ちぬ」のモデルとなった堀越二郎氏は、明治36年(1903)群馬県藤岡市に生まれ、大正13年(1924)4月に東京帝国大学工学部航空学科の第5期生として入学します。昭和2年(1927)3月に卒業した同期7人の中には、初の国産旅客機YS-11の開発で有名な、かの木村秀政氏を含め、当時、欧米に比べ大きく立ち遅れていた日本の航空機工学を懸命に推進した人物が数多く含まれています。

昭和初期の日本の航空技術の遅れは、例えば日米にはそれぞれ約十社ずつ航空機メーカーがありましたが、技術者の数で言うと日本の場合一社あたり30人程度だったのに対し、アメリカは2百数十人。各人がどれだけ優秀でも、とても適うはずがありません。そんな状況下で、世界を驚嘆させる名機を生み出した立役者が、堀越二郎だったのです。

昭和2年、東大工学部航空学科を首席で卒業した堀越二郎は、三菱内燃機(翌年、三菱航空機と改称)に入社しました。会社は、将来試作すべき大型飛行艇の設計を行わせる意図を持っていましたが、当時の三菱航空機は苦境に立たされていて、堀越の活躍の場がなかったようです。そんな中で堀越に昭和4年から5年にかけて、単独でヨーロッパへ航空機研究のため出張を命じます。シベリア経由でドイツに向かい、現地の支社に助けられて技術情報の収集にあたる堀越は、会社の方針による飛行艇設計の中止や、陸軍向け戦闘機の設計内示など、大きな不安の材料に悩まされます。「旅行鞄を見るのも嫌になった」「早くイギリスに渡りたい」と書かれた、ドイツ滞在中の書簡の中からは、ドイツ人に対する悪い印象が現われているようです。「ドイツ人は利に敏く品格に劣る人種」と書かれ、「このような民族でありながらも優れた飛行機を生み出している以上、日本人のような勤勉で優秀な民族がそれよりも優秀な機体を設計できないはずがない」という思いを強くしたようです。ドイツからイギリスに渡り、さらにアメリカへ足を延ばして、当時の欧米の航空機技術を目の当たりにした堀越は、「適当な方針と組織と規模があれば、小型機で欧米に追い付くことは十分に可能だ」と思ったそうです。

才気に溢れ、研究心旺盛な堀越は入社6年目の昭和7年(1932)、若干29歳で七試艦戦開発の設計主任に抜擢されます。結果、七試艦戦は海軍の要求性能を満たすことが出来ず正式採用に至りませんでしたが、その2年後、九六式艦戦の開発にあたり、成功をおさめます。堀越の念頭には、「当時の技術の潮流に乗ることだけに終始せず、世界の中の日本の国情をよく考えて、独特の考え方、哲学のもとに設計された『日本人の血の通った飛行機』『欧米に負けない飛行機』をつくる」ということが強く刻まれていたのです。

「その内容にざっと目をとおした瞬間、私は、われとわが目を疑った」昭和12年(1937)、海軍の十二試艦上戦闘機(後の零戦)計画要求書を見たときの堀越の印象です。航続距離、速力、格闘性能のすべてについて、海軍の要求は「無いものねだり」というべきもので、途方に暮れるものだったのですが、九六式艦戦で世界と肩を並べる戦闘機をつくった自負と自信があった堀越は「自分がやるしかない」と覚悟を決めたそうです。

以外にも堀越は図面を描くのが得意でなかったらしく、機械の設計者というより、むしろデッサンを学ぶ画学生のように、納得のゆく線が得られるまでフリーハンドで線を重ね書きし、すでに脳裏に描かれた線を紙の上に写し取る作業を続けたらしい。設計は理屈だけでは決まらない。制約条件や要求仕様はいったん設計者の頭脳というほの暗い領域を潜り抜けて、紙上の線、そして現実の飛行機へと進化する。ここに設計者の感性が入り込んでいくわけですが、当然ながら感性に任せるだけではダメなことは明らかで、大学時代から航空工学を一筋に学び、欧米各国の工場を視察し、航空雑誌で世界の動向を注視していた知識と経験のすべてが、この一本の線に込められているのです。

鉛筆書きのスケッチができると、堀越は「ちょっと、○○君」と部下を呼び、正規の図面に仕上げてもらう。この「ちょっと」が社内では有名で、「『ちょっと』といいながら、全然ちょっとじゃないんだよな」「いや、『ちょっと』がうんざりするほど沢山あるんだ」と陰口をたたかれていたそうです。部下が描いてくる何百枚という図面をチェックし、目的に対して不徹底ならば何度でも描きなおさせ、強度計算をやり直させたそうです。

機体の「軽量化」についても、「機体総重量の十万分の一までは徹底して管理する」という、ある種偏執的な領域にまで達したそうですが、いい加減なところで決して妥協を許さないというところが、大きな仕事をやり遂げることができる技術者として重要なところだと思いますし、また「陰口をたたいて」もついてきてくれる部下との信頼関係を築くことができる人間性も、チームをまとめる立場にある技術者として欠くことのできない要素ではないかと実感しています。ちなみに総重量1トンを超える飛行機でその十万分の一は10グラムあまりになります。個々の部品の設計にあたっては、当然のことながら0.01kgのレベルで軽量化を吟味すべきことを意味します。

人類の最大の過ちである戦争という時代背景の中ですが、技術者として欧米に比して大きな後れを取っていた日本の航空機技術を大きく引き上げた堀越二郎の業績から学ぶべきことが沢山あると思います。最後に、前掲の著書終章に書かれていて共感させられた堀越二郎の言葉を引用させてもらいます。

「なかには、日本の一部の学者のように、『なるほど日本には最終製品としては零戦のような優れたものがあったが、基礎研究をやらずに基礎知識は先進国に頼ってばかりいた。』という批判をする人もある。私も、かなりそういう面があったことは認めるが、それは日本が航空科学の分野で完全に世界の先進国の仲間入りをしていなかったからであり、良い悪いというべき問題ではなくて、むしろ当然のことだと思う。あらゆる分野で絶対の先進国になれば、外国の知識を借りる必要はないだろうが、現実には、経済の原則からいっても、世界に先に開発した知識があればそれを借り、他の面を新しく開拓して、そこから得た知識を貸してやるほうが、人類のためにも賢いやり方であろう。良い最終製品を開発する努力をし、それに必要な知識を求める過程で、新しいアイデアや、一歩奥へ踏み込んだ新しい何かを発見することが多いのである。」まったく同感の至りです。

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