作曲家山田耕筰の「童謡百曲集」は、1927年6月から1929年4月にかけて、5集刊行され、それぞれ20曲が載せられています。そこにまとめられた童謡の作詞者は5人で、次のようになっています。

第一集 北原白秋(10) 野口雨情(10)
第二集 三木露風(10) 川路柳虹(10)
第三集 北原白秋(10) 野口雨情(10)
第四集 三木露風(10) 西條八十(10)
第五集 北原白秋(12) 野口雨情(8)

一集に20曲ずつまとめられており、第四集までは各々の作詞者ごとに10曲ずつまとめていますが、最後の第五集は変則的に北原白秋が12曲あります。曲数だけ見ると北原白秋が32曲、野口雨情が28曲と多く、それだけで100曲の6割にもなります。次いで三木露風の20曲があり、川路柳虹、西條八十は10曲ずつしかありません。この曲数の差はいったい何なのでしょうか?山田耕筰が、「童謡百曲集」の制作にとりかかったころは、彼自身が主宰する日本交響楽協会の予約会員制定期演奏会の仕事で多忙であり、さらに近衛秀麿をはじめ数十人の楽団員が脱退するという事件に見舞われています。こうした事件が片付いたころ、山田耕筰は住まいを都内麻布から、茅ケ崎に移し、次女が誕生し、子供たちの姿を眺めながら、久々の家庭的雰囲気と余暇を持つことができました。その中で、白秋との出会いによって明確になった童謡の理念が一気に作品化進めたという説があります。茅ケ崎の自宅から、都内の事務所へ通う列車の中で、詩集を紐解き、思い浮かぶままの歌唱旋律を詩集の余白に書き留めていったそうです。使った詩集は、5人の詩人の各々1冊ですが、白秋だけは、その他からも引用しているようです。曲数の差は、童謡に関して山田耕筰の持っている理念と、それぞれの詩人が持っている理念の一致度の差からきているのかもしれません。

山田耕筰の「童謡百曲集」における西條八十の影は薄いのですが、佐々木基之先生が出された「分離唱から入る音感合唱曲集Ⅰ」にとりあげられた「葱坊主」の詩が、山田耕筰の音楽と併せて私の心に深く沁みわたってきたので、あらためて西條八十についてしらべてみました。

葱坊主

旅人が旅人が
下田街道のまん中を
ひとり泣き泣き通った

何と泣いて通った

山越えて海越えて
やっと戻った故郷の
寺の擬宝珠が見えるとて

三度笠とり駆けよれば
畠に生えた葱坊主
それが悲しいと
泣いて通った

この詩をどのように解釈するかは、読む人それぞれが自由に解釈すればよいと思います。久しぶりに戻った故郷で、最初に目に入った「畑に生えた葱坊主」を、寺の擬宝珠と見間違えてしまうといった、久しき時の流れを”哀しく””思ったのかもしれません。或いは、記憶に残っていたお寺が時の経過とともに荒れ果ててしまい、擬宝珠の実体は無くなってしまい、そこにあるのは畑に生えた葱坊主だけだったので、悲しいと思ったのか。ここで真相を究明する意味はありません。この詩に謳われた状況と似た状況、それが架空であってもかまいません、に出会った時に、この詩に謳われている感動を共有することができれば素晴らしいことだと思います。

西條八十は、1892年東京府牛込区(現新宿区)に生まれました。実家は大久保周辺に土地を持つ大地主でしたが、、石鹸製造業で財を成した父親の死後、家庭が没落し、道楽息子で信用のおけない兄に代わって八十が17歳のときに家督を相続しました。兄に財産を持ち逃げされたうえに、店の経営を任せていた支配人の横領も発覚、西條家の家屋敷はすべて抵当に入っていることも発覚し、この時の八十の心中は想像を超えるものがあると思います。

父親の死後は苦境に立たされたものの、それ以前は大地主であり、財を成した父親の庇護のもと、良い指導者との接触もあり生来あったであろう才能も伸ばされて、文学を志す青年になっていました。母と弟妹合わせた一家四人の生活を支えようと、大学に通いながら、株式売買にも手を出し、利益を上げています。天ぷら屋も始めたそうですが、こちらは商売繁盛とまではいかず苦労が続いたようです。

こうした中、雑誌「英語の日本」を一人で執筆編集していた頃、童話童謡の雑誌を新しく創刊した鈴木三重吉が訪ねて来て、「この頃の子供が歌っている唱歌は、大部分功利的な目的をもって作られた散文的で無味乾燥な歌ばかりで寒心に堪えない。私たちはもっと芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけない、これをやさしく育むような歌と曲とをかれらに与えてやりたい。私の雑誌ではこうした歌に、「童話」に対する「童謡」という名を付けて載せていくつもりだ」と打ち明けられます。この雑誌こそ、明治時代の教訓的な「学校唱歌」から子供の歌を解き放ち、自由な「創作童謡」へと変える画期的な雑誌「赤い鳥」だったのです。

文学と詩作に専念したくともそれは叶わず、家族のために不本意ながら金もうけに走っている自分の行動を、いつもどこかで恥じていて、心の中で自責の声を聞いていた八十は、この思いをうたいます。

歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょか
いえいえそれは可哀そう

唄を忘れたカナリヤは 背戸(せど)の小藪に埋めましょか
いえ、いえ、それはなりませぬ。

子供のために純粋な童謡を書こうとした八十は、その歌詞に自分の現実生活の苦悶をにじませつつも、かすかな希望を託します。

唄を忘れたカナリヤは 象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思い出す。

1918年(大正7年)の『赤い鳥』11月号に掲載された「かなりあ」は評判になり、『赤い鳥』専属作曲家の成田為三が曲を付け、日本全国で歌われるようになりました。
同年6月に「砂金」を自費出版した八十は、27歳にして詩人として認められるようなりました。

「かなりあ」の歌を覚えていますが、こうした歌詞に込められた作者の想いを知らずにただ歌ってきていたのですね。こうした思いを果たして子供が理解できるのかどうか、時代が変わってきているので、その是非を問うことは難しいことかもしれませんが、この思いを知らずにこの歌を唄うのは、とても勿体ないことだと思いませんか?
西條八十について調べてみて驚いたのですが、いろいろなことをこなせる才能が豊かな人だったことです。苦境の中で家族を支えるために兜町へ通ったこともありますが、素晴らしい童謡を残してくれたこと以外にも、フランス文学もこなす一方、数多くの研究書・著作、詩集(象徴詩・純粋詩・その他)、訳詩集、歌謡曲(流行歌)、小説、校歌・社歌、軍歌・戦時歌謡と実に幅広いものを残しています。㈱国書刊行会が発行した「西條八十全集」は、17巻に渉る大部なものになっています。

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