村田英雄の熱唱で日本全国にヒットした「王将」。村田英雄のファンならずとも、口ずさむことができるほどに、日本人の心を歌い上げた、数少ない曲の一つだと思います。
作詞を手掛けたのが晩年の西條八十なんですね。作曲は船村徹。この歌は、村田英雄のために書き下ろした流行歌で、1961(昭和36)年コロンビアレコードから発売され大ヒットしました。

吹けば飛ぶような 将棋の駒に
賭けた命を 笑わば笑え
生まれ浪速の 八百八橋
月も知ってる おいらの意気地

あの手この手の 思案を胸に
破れ長屋で 今年も暮れた
愚痴も言わずに 女房の小春
つくる笑顔が いじらしい

明日は東京 出て行くからは
なにがなんでも 勝たねばならぬ
空に灯がつく 通天閣に
おれの闘志が また燃える

実在した名棋士・坂田三吉(1870~1946)が、大阪・天王寺の長屋に住みながら独学で将棋を見につけ、ハングリー精神で東京中心の将棋の世界に挑むストーリーをうたったものだということは、私も含め多くの人が承知していることだと思います。1947(昭和22)年初演の新国劇の上演、さらに何度も映画化され、そしてこの流行歌の大ヒット、それぞれの相乗効果もあったことでしょう、爆発的なヒットをおさめました。

実は、この唄には ほかならぬ西條八十自身の強い思いが反映しているのだという見方が有力なのです。「将棋の駒」を「原稿用紙」と置き換えて読んでみてください。吹けば飛ぶような原稿用紙に命を賭けた、これは大衆を楽しませる唄に命を賭けた西條八十の生きざまを象徴している、と「名作童謡 西條八十100選」(上田信道編著 春陽堂 平静17年刊)に書かれて言いますがまったく同感です。 二番の歌詞「女房の小春」は、むろん西條八十自身の妻春子を指していることは容易に察せられます。吹けば飛ぶような原稿用紙に命を賭ける自分のような詩人に、生涯にわたって愚痴も言わずについてきてくれた西條八十の感謝の気持ちをうたい込んでいるものと取れましょう。

「あの手この手の思案を胸に 破れ長屋で今年も暮れた」生計を立てるため、天ぷら屋を出したり、出版社の二階に住み込んだ貧乏時代もあり、有名になってからも数多くのロマンスで浮き名を立て、晴子夫人に大変な苦労を掛けています。この唄が発売される前年の1960年に、晴子夫人は亡くなっています。

1970(昭和45)年この世を去った詩人は、その年8月15日の「朝日」「毎日」「読売」各紙に風変わりな死亡広告を出しています。

「私は 今日 永眠いたしました。長い間の皆様のご厚誼に対し厚くお礼申し上げます。 西條八十」

もう一つ、彼は遺書を残しています。千葉県松戸市の八柱霊園内の西條八十・晴子夫妻の墓に刻まれています。

「われらたのしくここにねむる
 離ればなれに生まれ めぐりあい
 短き時を愛に生きしふたり
 悲しく別れたれど ここにまた
 心となりてとこしえに寄りそいねむる
            西條八十  」

何とも心にくいことばを残してくたことでしょう。日本の古典を学ぶだけでなく、ヨーロッパ各地を訪れた経験も踏まえ、日本人の伝統的男女観の枠にとらわれない人間観によって醸し出された珠玉の名文句ではないでしょうか。

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