阪田寛夫著「海道東征」は、小説の形にはなっているものの、実に大作曲家信時潔のありのままの姿を描写していて、非常に興味深く読めました。小説と謳っているわけではないけれども、そこは、作者の思惑があって、多少の脚色はあるだろう、くらいな気持ちで読ませてもらいました。著者の従兄にあたる作曲家の大中恩が東京音楽学校に入学して、作曲科で信時潔のレッスンを受けていたそうです。昭和12年に現在のNHKの依頼を受け、鎮魂歌のつもりで作曲したであろう「海ゆかば」が、戦争中に国民歌を通り越して国歌に準ずるような歌い方をされたのが多分決定的な要因となって、ひと頃信時は国民的大作曲家というイメージを持たれたようで、昭和17年に、山田耕筰とともに芸術院会員に推されています。作曲家大中恩を知る人なら、さもありなんと思われるでしょうが、父大中寅二と似て、抒情的な歌曲や合唱曲が持ち前のところだったのですが、大中恩の信時潔の回想によれば、信時はそのようなやわな甘さを抹消的で風雪に耐えないものと断じて、仮借なく切り棄て、旋律にも和声にも勁くまっすぐな骨格を通そうとしたようです。
同じく、大中恩の回想ですが、レッスン中の信時は、意外に甲高い声で、口角泡を飛ばして喋るとか、鉛筆を舐め舐め譜面を直していく様子、身と心を尽くして喋る(指導にあたる)あまり、たまった唾液がピアノの鍵盤に垂れて光っていることがあったそうです。清潔さというイメージからはちょっと離れていますね。
 新保祐司著「信時潔」の表紙に飾られている写真もそうですが、和服姿でザン切り頭、ヒゲを伸ばした姿は、当時まだ珍しかった西洋文化の導入を魁る人には見えませんね。漢学の師匠のようです。頭も、大正9年から11年にかけてのヨーロッパ留学の際、向こうで囚人と間違えられるからと人に言われて、生まれて初めて長髪にして出かけたものの、三ヶ月で丸刈りに戻してしまったそうです。作曲にせよ、著作にせよ、集中して仕事をするのに、長い髪は邪魔だったのでしょう。
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もう一つ、信時潔にしては珍しい姿の写真があります。信時裕子さんがまとめられた、「SP音源復刻版 信時潔 作品集成」の解説書表紙を開いたところにデーンと現れる、武蔵野の雪景色を背景にオーバーコートに身をくるみ、帽子を被っている写真です。撮影したカメラマンの言葉に、「先生のお人柄がよく現れているように思われ、私の好きな1枚です」とありました。
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