明治43(1920)年、日本民俗学の草分けともいえる「遠野物語」が柳田国男氏の手によって刊行されています。岩手県上閉伊郡土淵村(現、遠野市土淵町)に生まれ育った文学青年、佐々木喜善氏が覚えていた遠野盆地の伝承を、柳田氏が聞き書きし整理したものだそうです。まだ私はこの「遠野物語」を読んではいないのですが、どういうきっかけか遠野が気になっていたところに、書棚の整理中に「PHPほんとうの時代Life+ 2011年11月号」に掲載されていた「遠野物語の舞台へようこそ」と題した、三浦佑之立正大学教授の記事が目に留まり、そこに紹介されていた遠野市の人々の持っている、日本人が大切にしている温かさに心を打たれました。
東北本線花巻駅から東に走り、太平洋に面する三陸海岸沿いの釜石に延びる釜石線のほぼ中間に位置する遠野市は、人口2万9千(平成22年国勢調査)で、人口は減少する傾向が続いています。もともとはこの地の基幹産業は農業なのですが、同市のホームページを見ると、1万5千人の就業人口のうち、トップは第三次産業、次いで第二次産業、第一次産業は第三位となっているようです。

遠野マップ

遠野マップ

2010年に「遠野物語」発刊100周年を迎えた遠野市では、様々なイベントが行われてにぎわい、その翌年6月には「遠野文化研修センター」を発足させて次の100年に向かおうとしていた矢先の三月十一日、忘れもしないあの東日本大震災が発生し、内陸に位置する遠野市でも市庁舎が崩壊の危険さらされるなどの被害を被り、100周年で盛り上がった市民活動は水を差されました。そうした中で、この記事を書いた三浦佑之教授を感動させた内容を、以下に引用します。
『(前略)震災のあと遠野に行った私は、復興支援シンポジウムのパネリストであった岩手県上閉伊郡大槌町の職員からこんな報告を聞いた。町長をはじめ多くの人が犠牲となり、町の大半が流出した大槌町では、高台にある公民館や学校などに避難した人々への食糧の確保がすぐに問題になった。震災当日の夜、避難所の運営に当たっていたその職員は、炊き出しのための米を手に入れようと、海岸沿いの国道は使えないので今はあまり使われない山道を抜けて遠野に向かった。やっと遠野に着き、長蛇の列のガソリンスタンドに並んでいたら運よく遠野市役所の職員と出会い、彼の機転で順番を飛ばしてガソリンを手に入れ、米も確保して避難所に戻ることができた、と。
遠野には人と物とが流通する拠点としての役割がある
一方、遠野市では被害の状況がわかるとすぐに(といっても詳細はほとんどわからないまま)、職員や市民がいっせいに支援体制を整え、三陸沿岸の市や町に食料や日用品などを届け始めた。市の職員は、炊き出しのおにぎりを毎日作り続けて手の皮がうすくなってしまうほどで、震災から一週間で八万個に達したという。 また、被災者を受け入れ、外から駆け付けた自衛隊や各地の警察・消防、そしてボランティアなど支援隊の前線基地も設置された。宿泊場所や食料を確保でき、四年前(2007年3月)に完成した新仙人トンネルを通って沿岸地域と往復できる遠野は、迅速な援助活動を進めるための拠点として格好の土地だった。そして、そうした人と物資とが流通する地域拠点としての位置と役割を、とおのはむかしからになっていたから、今回もすばやく対応できたのだ。このことはとても重要なことで、そうしたつながりは、「遠野物語」に描かれた伝承のいくつかを読んでみるとよくわかる。
(中略)

遠野物語の舞台風景

遠野物語の舞台風景

遠野は山深い村だと思われそうだが、けっしてそうではない。江戸時代には遠野南部家の城下町として繁栄した遠野は、沿岸地域と内陸地域とを結ぶ交通の要衝であった。それゆえに定期的に市が立ち、物と人と馬とが行き交う「煙花な街」(『遠野物語』初版序文)だった。そして、そこを動くのは、目に見える物資ばかりではない。人と人とをつなぐ心が交流し、人が伝える話を移動させる、それが市であり街道であった。そうした関係は、道路が整備され鉄路が通じるようになった近代にも消えることはなかったから、今回の大津波においても、遠野の人たちは自分たちが果たすべき役割を見失うことがなかったのである。(後略)」

「炊き出しのおにぎりが一週間で八万個」簡単に計算してみると、一日一万個、10時間作業したとして一時間に1000個です。10人で取り掛かっても各人一時間に100個。休みなしに10時間ぶっつづけで作ったとしてもこの数字はすごいものです。決して生半可な気持ちで出来るものではありません。自分たちが果たすべき役割というものを、長い歴史の中で頭に刻み込んで、代々受け継いできているのに違いありません。日本人の素晴らしい心を見せつけられた思いがします。

この記事を書かれた三浦教授の人間性にも深い共感を覚えるものですが、記事の最後の書かれている言葉を、現代に生きる私達への戒めとして、再び引用させてもらいます。

「何か大きな災害や事件が起こった後に語られそうな話だが、本文を読むと、生者にも死者にも心を寄せて哀切な感じにさせられる話になっている。そして、この話から見出せるのも、内陸の遠野と海岸の村々とのつながりの深さである。今、流行語のように飛びかっている「絆」という語は、こうした関係に当てはまるのだろうか。

将来を見据えた復興計画や巨額な予算を必要とする事業は国や県が責任をもって推進しなければならない。一方で、きめ細かな目配りや心の通った支援の必要性が、今回の大震災で改めて見直されたのではないだろうか。そして、『遠野物語』の伝承に見出される日常的なつながりには、新たなかたちで組み立てなおす必要に迫られた現代人へのメッセージが潜められているのではないか。そうした意味でも、『遠野物語』は今日的な価値を持っていると、私は思う。」

この記事の中には、原典の「遠野物語」から、いくつか紹介されているのですが、それを読んでみると私にはスラスラとは読めそうにない感じもするのですが、ぜひ近いうちに原典を読んでみたいものだと思いました。また、遠野を訪れて、その空気に直に触れてみたいと思います。

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