レオニード・クロイツァーの生涯を読んで、戦争下に置かれた社会に翻弄された生涯と言って過言ではないと思います。その意味では、日本の音楽家で私が敬愛するひとり、信時潔の生涯と共通点を見るような気がしてなりません。ただ、クロイツァーの場合は、彼自身としてみた場合には違うのかもしれませんが、戦争の影響がなければ、これほど日本と深いつながりができなかったのではないか、日本人にとってみればむしろ福音がもたらされたということになると思います。縁があって3度目の来日を果たした昭和十年、クロイツァーのピアノ演奏に胸を打たれた織本姉妹が、弟子入りを願って佐々木幸徳(基之)先生の書かれた紹介状を持ってクロイツァーのもとを訪れたことが端緒となり、姉の豊子は師弟の関係からやがて二人の間に愛が育まれ、運命を共にすることになります。昭和27年、32歳年下の最愛の妻豊子を得たクロイツァーは、奇しくも翌昭和28年10月30日永眠することになりますが、結婚した年には、ピアニストとしてばかりでなく、指揮者としても大活躍をしているのです。

1884年、ロシアのペテルブルグにユダヤ系ドイツ人両親のもとに生まれたクロイツァーは、反ユダヤ主義のアレクサンドル三世の熾烈な弾圧政策に苦しみ、1906年、ロシアを離れ、ドイツに移住することになります。ドイツで、親友となった名指揮者フルトヴェングラーの推薦により、1921年ベルリン高等音楽院の教授となったクロイツァーのもとで、1923年に日本から留学した高折宮次は、2年間の厳格な指導を受け、「次代を担う日本の若いピアニストを育てるには、クロイツァー自身に日本へ来てもらうのが最善の方法ではないか。何とかして彼を日本に招こう!」という結論を出しているようです。同じ1923年に、若き指揮者近衛秀麿もベルリンで過ごし、尊敬するクロイツァーから様々な助言を受けるようになり、高折宮次と並びクロイツァーと日本を結ぶ太いパイプとなったようです。さらに、高折宮次の私的な弟子であった笈田光吉は、日本のピアノ教育界に大きく貢献したほか、来日後、東京音楽学校就任前のクロイツァーを献身的に世話するなど、クロイツァーが日本に永住するための地固めは進んでいったようです。

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